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「ドン・キホーテ」の美学

Life Heart Message 2018.11.19

 

かつてフランス・レジスタンス文学が多くの若者の心をとらえていた時代の代表的作品として読まれた『人間のしるし』『世界の重み』などの小説の作者クロード・モルガン。

 

彼の最後となった著書『ドン・キホーテたちとその他の人びと』は、「その他の人びと」とは<ドン・キホーテではない人びと>ということであった。モルガンは「ハンガリー事件」をきっかけにフランス共産党指導部と対立して党を去った。自分自身に対して嘘をつくことを拒否し、「第三の道」を選び、ソローニュの平野の森と池にかこまれた地に妻と2 人の幼い娘たちとともにひきこもって、「生活のため」にペンネームで科学読物を書くことを選んだ。占領下に「対独協力派」の新聞には絶対に執筆せず、生活のため英語の個人教授をした。

 

戦争、人種差別による殺人、非人道的な法律によって圧しつぶされる個人の悲劇、戦争や軍備拡張に狂奔する政治家や軍人たちの言動、飢え苦しむ低開発国の人びと……こうした「20 世紀の醜怪さ」の記録、その「告発状」である「ドン・キホーテたち」は生まれたのである。季刊の文芸・美術誌『クレエ』の論説を担当したが、かれは一切の名誉と一切の金銭的報酬を辞退し、仕事と友情だけを受けとった。

 

1980 年に81 歳で亡くなったが、翌年に彼のための「クロード・モルガン追悼特別号」が『クルエ』に掲載された。そこには、単に死者に対する礼儀から書きつらねられた美辞麗句ではない、心からの追悼の言葉が見出され、モルガン夫人の言葉を借りれば、「かれを最もよく知り、高く評価し、愛していた人びとによる、感動的な証言の花束(ブーケ)」であった。

 

ポール・エリュアールは、「わが親愛なるクロードへ。いまだかってないほど空気と光が必要だったあの時代に、きみは1000 回も朝の窓をあけてくれたものだった」ピエール・バラフは「レジスタンスの歴史家たちは、クロード・モルガンのことを、「人権宣言」の祖国がはずかしめられ、ないがしろにされていたときに、<文学>と<フランス>の名誉を救った人びとの第一行目に書き記すべきである」と。

 

ヴェルコールは「……体現された勇気と精神の廉直さによって、私はたちまち魅了された。……かれは最もけわしい道を選んだ。胸がはりさける道を、友人たちからきりはなされる道を。かれはそれを抜群の尊厳をもって実行した。人びとはかれに対して同じようにはふるまわなかった。かれは嘆くことはせずに、沈黙した。私はかれの品位を、かれの慎みを嘆賞した。クロード・モルガンのこの高貴さは、私にとって鑑となっている。私はそれがかれを知っていたすべての人々にとって鑑となりつつあるだろうと思う」彼は勇気あるドン・キホーテだった。

 

ツルゲーネフは言った。「ドン・キホーテのような人びとが無くなったら、歴史の本は永久に閉じられても構わない。その本には何も読むべきことが書いていないでしょうから」……