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「胆力」の美学

Life Heart Message 2018.12.03

 

嘉永6 年(1863)ペリーの小艦隊が浦賀に来航した。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯(4 隻)で夜もねむれず」という落首がはやった。ときの幕府の筆頭老中、阿部正弘は、この危機に対処するために、旧例をやぶって二百六十諸侯と直参の幕臣から、意見書を提出させた。この直後に思い切った人材登用によって、貧乏御家人だった勝麟太郎義邦の「海防意見書」によって勝は歴史の表面に出ることになる。

 

安政5 年(1858)に日米修好通商条約の批准書交換のため、咸臨丸の艦長として海舟勝麟太郎は、ジョン万次郎の通訳と協力して、太平洋の真中でアメリカのブルック大尉の進言を受け入れ、海軍の規律と機能的な人間関係や、近代精神を身に付ける。当時の日本人の価値観は、世界を知らなかった。

 

勝海舟がアメリカに行っている間に、桜田門外の変があり、帰国した時には、政治的気流は変貌していた。幕府に献言して、兵庫軍艦操練所を設置し、身分や出身にこだわらず、各藩の脱藩者も受け入れ、有能な人間、情熱のある人間を集めようとした。坂本龍馬や陸奥宗光はこのときの門弟であった。だが、封建幕藩体制の矛盾が次々と露呈され、根本的な改革を必要としていた。

 

結局慶応4 年正月の鳥羽・伏見の戦いで幕府側が敗れ、明治維新が実現する。明治政府がひとたび日本の正統政府として国家理性を代表する立場に落ち着くと、今度はこれに対する民族感情の反撥が生まれる。はじめは廃藩置県をいう大改革を行った反動で政府が内部分裂をするという危機に直面する。その時、勝が登場する。その以前に勝は徳川家の遺臣である名分に固執するのは、日本人としての本分にもとる。自分の能力を国家に捧げなければと、参議・海軍卿として明治政府に仕え、のちに伯爵を賜って枢密顧問官にまでなっていたことが非難の対象となった。福沢諭吉の肺腑をえぐる批判に対して、勝は「毀誉は他人の主張、行蔵は我に存す。我に関せず、我にかかわらずと存じ候」と返事を書いた。

 

悲劇的な佐賀の乱、西南戦争の自滅。この時期に国家理性を代表したのは、西郷の友であった大久保利通であったが、明治11 年に暗殺される。勝海舟が、条約改正論議が沸騰しはじめた明治22 年、徳川十六代目当主家達に対して、ある日烈々たる手紙を送っていた。この不平等条約はそもそも徳川幕府が結んだ条約であって、その責任は今日たりとも少しも消えていない。だから、旧幕臣は軽挙妄動しないで、建設的に改正論を堂々と唱えるべきである。足の引っ張り合いをやるようなみにくいことをしたら、徳川の遺臣の名がすたると、勝海舟は舞台裏で努力していた。

 

その後、条約改正が実現したのは、日清戦争の直前であった。

勝海舟は、日本人が中国大陸に深くコミットするということは非常に危険なことだ。日本にはそれだけの器量がないと言い切っている。強い信念と知力、そして大きな胆力を勝海舟は体現していた。