「藩政」の美学

Life Heart Message2016.08.31

 

日向高鍋藩三万石の藩主の二男として生まれた少年は、母方の祖母が米沢藩主上杉綱憲の娘であった縁で米沢藩十五万石の藩主上杉重定の養子となり、明和4年(1767 年)4 月に満15歳で家督を嗣ぎ米沢藩主となった。実名は治憲(はるのり)、鷹山(ようざん)は号であった。

 

上杉謙信以来の名家である上杉家は、幾多の変遷の中で家臣団の数は5千人規模で維持していたが、鷹山が養子で入った頃の米沢藩の財政は破滅的な状態に陥っていた。

 

当時、藩内にも改革を待望するグループが鷹山を守り立て、改革政治は進められ、鷹山自ら徹底した倹約から始め、藩の関係費用を従前の七分の一への大幅に削減し、食事も日常は1 汁1 菜、衣服は絹を避けて木綿を着用し範を示した。そして農業生産の増進策を打ち出し、これには農民だけでなく上杉家中、上級家臣も総動員されたのである。

 

一藩を挙げての事業として推進されていたが、改革路線をめぐる闘争の危機「七家騒動」が勃発、重臣七名が鷹山に訴状を「言上」したが、事実を歪曲したものであることが家中・領民よって七家訴状が虚妄の言に過ぎないことが判明。七重臣の処罰に踏み切るが、内五家は閉門免除のうえ、嫡子へ家督が許され、そののち知行も旧に復されている。これらすべて先祖の勲功を重んじた措置であった。

 

この事件は上杉家中に分裂ではなく、一段と強固な結束をもたらすことになる。だが、鷹山の改革政治も、自然の無慈悲な仕打ちには勝てなかった。天明の大飢饉は米沢藩をも直撃。営々と積み重ねてきた鷹山の改革の成果を無に帰してしまう深刻なものであった。財政の再建はまた一から始める他はなかった。

 

このような事情から、35 歳で隠居して人心の一新を図るため、藩主の地位を鷹山の養父である重定の三男治広に譲り、重定の存命のうちに藩主の地位を重定の実子であり、上杉家の正系を引く男子に戻すことによって、重定と上杉家の人々の心を安じようとする鷹山の孝心から出たものであろう。だが人々はなお鷹山に藩政の舵取りを求めたため、こののちも治広・斉定(なりさだ)の二代の藩主の後見として、没するまで五十余年の長きにわたって藩政を指導した。

 

鷹山は渦中に上言疎通を出し「会計一円帳」を公開し、改革の意見書の上呈を求め、また莅戸善政を中老職に再登用し「異端」の説をよく聞き入れ「象評」に則って政治を運営していくために、「上書箱」を設けて、農民・町人らの政治に対する意見を上申させた。また、国産奨励政策を徹底し、各種産業の生産技術が磨かれ、その実行は組織末端に至るまで効果をもたらし、米沢藩は「国富み、民豊かに相成り、当時にては出羽第一の国柄」と他から評価されるまでに至っていた。

 

鷹山の政治姿勢の要諦を著した「伝国の詞」の第三条に「国家人民の為に立たる君にして、君の為に立たる国民人民には無」之候と云う表現は、日本の政治思想史における最高の到達点を示している。