「義士」の美学

Life Heart Message 2016.09.21

 

宝暦3年(1753)の暮、徳川幕府は突如として、薩摩藩に対し、濃尾平野を南流する木曽(きそ)、長良(ながら)、揖斐(いび)の三川治水工事を命じてきた。現在の岐阜、愛知、三重県にまたがる地方で我国屈指の大河の改修工事の普請であった。これは外様大名の筆頭である薩摩藩の勢力を削

減し、頭を持ち上げるのを抑えつけておくという徳川幕府の常套手段であった。

 

当時薩摩藩は60万両余の藩債(借金)を抱えており、これも徳川政権百五十年間の圧制の累積であった。これまでにも莫大な負担を背負わせてきた幕府の卑劣な手段に、各重臣たちもことごとく憤慨した。一藩の浮沈にかかわる大事業を、遠隔の薩摩藩に押しつけられ、沸騰する藩論の中で「ここは艱難を忍んでこの大任を果たすほか、わが藩の生き延びる道はない」と、家臣・平田靱負正輔(ゆきえまさすけ)の究極の考えを示し、「この度の幕府の命令は筋が通らないが、静かに考えるに、四海同胞といって日本国中は皆兄弟と同様である。その兄弟が水に苦しみ難儀をしていると知ったならば、これを助けるのが仁義を尊ぶ薩摩武士の本分ではなかろうか。

 

この際、幕命の是非如何は論外とし、治水工事に必死の働きをして、水難に喘ぐ気の毒な現地の住民を救済し、薩摩武士の誉れを千載に伝えるのがお家安泰の基ではなかろうか」

情理を尽くした平田家臣の説得に、藩主もこの幕命を受けることに決し、同席一同もこれに納得するところとなった。

 

普請工事は宝暦4 年(1754 年)に始まったが、季節的に最悪であったうえ、地元の協力が得られず、作業は困難を極めた。工事個所91 か所延長39 キロメートル、田畑の掘り上げ64 ヘクタールという膨大で、三川の合流地点で川底の高低差が2.6 メートルもあり、水流はこの地点で最も奔騰し、渦巻は河底を穿ち、飛沫は天に沖す激流であった。

 

遠く異郷の地で難工事に従事する薩摩藩士たちは、板張りにむしろ敷きの粗末な仮小屋に、貧しい食事、夜は疲労困ぱいした体を横たえていた。腹痛を訴える者が続出し、日に日に犠牲者が出て宿所は正に阿鼻叫喚の生き地獄であった。

 

普請場は、筆舌に尽くせぬ苦難の絶望の日々で、まるで修羅場、戦場であったが、宝暦5 年4 月6 日までに幕府の検分によって完成し、当初の幕府役人たちの横柄、意地悪、高圧ぶりとは打って変わった態度で、出来栄えを褒めた。平田惣奉行は幕府の検分が終わった後、5 月25 日、藩主宛の報告書を残して、自刃した50 人、病歿せる32 人、82 義士の責任を取って自刃。

 

辞世の歌には「住みなれし 里も今更残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」とあり、その悲壮な胸中が偲ばれる。「今や聖恩 隈もなく 義士の功(いさお)は畏(かしこ)くも 御鑑(かがみ)に入りて香(かん)ばしく 世にこそ匂え 薩摩武士。人は一代 名は未代 花は桜木 人は武士 臣民(たみ)の亀鑑

(きかん)とうたわれて 千秋万古に名も高し」と、詠われたり・・・・・・・