「稀有絶無」の美学

Life Heart Message2016.11.9

 

この子は俗世の塵には向くまいと、母は思い少年は禅寺にやられた。剃髪して一証円と名乗った。奇妙なことに興味をもち「唐音(中国語)を学びたい」と言い出したこの小坊主(中根東里)は禅寺を飛び出した。

 

当時、日本で唐音を学べるところは2か所しかなく、唐人屋敷のある長崎と、宇治の黄檗山(おうばくさん)萬福寺であった。東里は迷わず、黄檗山をめざした。正徳元辛卯年(1711)秋、11 歳あった。そして中国僧に師事した。桁違いの好奇心をもって生まれてきた少年は、唐音を瞬(またた)く間に上達する。しかし中国僧は書見を禁じたため下山。詩文にすぐれた荻生徂徠の門下の慧岩のいる江戸に向かう。

 

鎖国によって渡ることを許されない江戸文人の中国への憧憬の強さは我々の想像を絶するものがあり、漢書が訓める東里は慧岩によって蓮光寺にある経典を山と積み、朝から晩まで読み耽った。齢十九にして大蔵経(五千余巻)を読破しようとしている、との噂が、当代きっての荻生徂徠に知れ、会うことになる。徂徠自身は、それほど、唐語に通じていなかったため、通詞の中国語の達人を、彼の知恵袋として使っていた。とりわけ、若年の英才を探して門弟とし、おのれ己の脇をかためていた。それゆえ「経典をあまねく読み、そのうえ唐語を知っており、年はまだ二十歳」の東里に会うや、その学才に動揺し、激賞して入門を許される。この天才児の恐るべき才能は徂徠の使徒となっていった。

 

ただ、これより、東里の名声は都下に鳴り響いた。だが、文名があがるにつれ、心にしこりのようなものが胸につかえて癒えず、ついに病に臥した。たまたま手にふれた「孟子」の浩然の気の章に東里は電戟に撃たれ、生涯を大きくかえることになった。師に認められるとか、文名があがるとか、僧呂の修行など取るに足らぬほんの小さなことと思え「道の広大簡易なる。かくの如し」と、還俗を決意する。東里の還俗への石つぶては徂徠であった。

 

一門はよってたかって、東里の排斥運動に荻生徂徠の隠然たる力を思い知らされた。この窮地のとき、貧苦のなかで三人の娘を亡くした天下一、名高い浪人が「わが家に居候してくれ」と懇請する。齢六十に到らんとするこの人こそ、書の大家、細井広沢であった。招かれた細井宅にきて驚いたのは、その蔵書であった。

 

当時、加賀藩は日本一、学者さがしに東里が知られ、細井広沢は歓喜して推薦され、正徳六(1716)年、23 歳の東里は金沢に下った。恐るべき研鑽によって、東里の学識は絶頂をめざした。士官をすすめられたが断り、江戸に帰る。

 

朝晩、書を読み、食が尽きれば、路傍で履物を作って売った。王陽明の「到知、格物、知行合一」の「物に格(いた)る」るを「物に格(ただ)す」と訓んだ中根東里。村の人々によってつくられた「知松庵」で村の人々を教え、姪の芳子を育てた。江戸文人から「詩文において中根東里にかなうものなし」と言わしめた彼は72 歳の人生を終えた。天才詩人の遺品は姪のために、たった一つ著作を残していた。驚くべき漢体の名文で東里の思想の精髄を教えようとしたものであった。「人のいのちは、書物より尊い」「天地万物一体」ところどころに、かわいい鳥や、けものの絵が色つきで描いていた。慧光照無量。