「節義」の美学

Life Heart Message2016.11.24

 

実父は相模国の農民であったが、御徒の株を買って幕臣となり、旗本安生家の養子となった子供は、その身の才幹と努力によって、組頭、御金奉行、勘定吟味役、遠国奉行などを順次歴任して、長官職たる勘定奉行の地位まで昇進。江戸町奉行を歴任した根岸肥前守鎮衛(やすもり)の如く、

農民出身者がいた。この時代は、能力主義に基づく昇進の階梯が制度として確立しつつあったのである。

 

今一人勘定奉行小野日向守一吉(くによし)の例がある。彼の父も下級幕臣で、御細工所同心の組頭というきわめて低い身分の者であった。延享5 年(1748)朝鮮通信使が来日して江戸参府するため、小野も通行宿駅での供応役を務めた。そうしてこの接待も無事に終わり、江戸の勘定所からこ

の度の通信使一行の接待に関する諸費用の収支計算を整理し、追って総括の勘定帳を作成して提出するようにとの指令が出されたのである。江戸の勘定所ではこれに、驚いた。このような大規模で複雑な接待の収支勘定を迅速に処理したのは、小野であった。

 

彼いわく、この度の臨時御用を命ぜられた初めから、一切の買い上げ物の品目と値段を懐中の帳面に記し、日々の勘定をその晩のうちに仕上げていた。当座の勘定決済のなし難いものについては別立てで残しておき整理をして、御用が完了するとともに総勘定もまた自ずから仕上がっており、あとは懐中帳面の書き上げを清書するのみであったと、誠に事もなげの風情であった。

 

これを聞いた上司たちは、手を打って小野の才幹に感じ入ったという。こうして小野を江戸に召され、勘定組頭となり、さらに勘定吟味役に栄進する。次の跳躍の機縁をなしたのは、大坂町奉行所内で生じた不正事件の摘発であった。彼の正義に則った処断に対して周囲からの批判も多く向けられ、切腹するか奉行へ昇進するかの瀬戸際であったが、宝暦12 年に勘定奉行を拝命する。同心の身分から経上がってきた人物だけに、誹謗も少なからずあったが才力抜群にして、しかも御用に精勤することは余人の及ぶところではなかった。そして大目付へと栄転する。

 

「明君家訓」に、君臣ともに「善に進み、悪を改」めることを第一義とし、そのための手段としての「異見」「諫」の必要を冒頭に掲げている。「君たる道にたがひ、各々の心にそむかん事を朝夕おそれ候、某(それがし)身の行、領国の政(まつりごと)、諸事大小によらず少もよろしからぬ儀、又は、をのをの存寄たる儀、遠慮なくそのまま申し聞けらるべく候」と。

 

次に臣下に対して節義の行為を求めている。「節義の嗜(たしなみ)と申は口に偽りをいはず、身に私をかまへず、心すなをにして外にかざりなく、作法乱さず、礼儀正しく、上にへつらはず、下を慢(あなど)らず、己れが約諾をたがへず、人の患難を見捨てず・・・・さて恥を知て首を刎(はね)らるとも、己れがすまじき事はせず、死すべき場をば一足も引かず、常に義理を重んじて其心鉄石のごとく成ものから、又温和慈愛にして物のあはれをしり、人に情け有るを節義の士とは申し候」と。

あるべき君臣関係を説いている。