「武士」の美学

Life Heart Message2016.12.8

 

柴五郎は会津出身の、上級武士の五男として生まれる。彼が5 歳の折、江戸幕府はすでに大政奉還を奏上し、藩主は京都守護職を辞して、会津城下に謹慎されていたが、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津戦争となり、柴五郎の祖母、母、姉妹は自刃。一族に多くの犠牲者を出す。彼は路傍に身を投げ、地を叩き、草をむりし泣き叫んだ。

 

落城後、俘虜として江戸に収容され、後に下北半島の火山灰地に移封され、公表をはばかるほどの悲惨な飢餓生活を続けた。薩長藩閥政府が華やかに維新を飾りたてた歴史から、全く抹殺された暗黒面があった。

 

柴五郎翁が死の3 年前に記された「血涙の辞」に「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路を超えたり。・・・・故郷の山河を偲び、過ぎし日を想えば心安からず、老残の身の迷いならんと自ら叱咤(しった)すれど懊悩流涕(おうのうりゅてい)やむことなし。」とある。「下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下部武士どもに笑わるるぞ。生き抜け、生き残れ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは生きてあれよ。ここはまだ戦場なるぞ」と父に厳しく叱責される。「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあれば、いつかは春も来るものぞ、堪えぬけ、

生きてあれよ。ついに曙光の昇る朝は来たれり。」

 

父の叔父にあたる野田豁通(ひろみち)の恩愛によって学問修業のため青森県庁の給仕に召し抱えられ、その後軍界に入る。会津精神の化身ともいうべき柴五郎は、また生粋の明治人でもあった。藩閥の外にありながら、軍人として最高の地位、陸軍大将、軍事参議官の栄誉を得た逸材であり、中国問題の権威として軍界に重きをなした人でもある。

 

明治33 年、北京の駐在武官であったときに北清事変(義和団の変)に遭った。そのときの沈着な行動は世界各国の賞賛を浴びたが、功を語るを好まず、謙虚の美徳を備えた温厚な武人であった。氏は、終生中国人の友であり、信望が厚かった「中国は友としてつき合うべき国で、けっして敵に廻してはなりません」「この戦いは残念ながら負けです」と言った。

 

12 万余の兵力を動員された、日清戦争、明治10 年西南戦争には10 万余の兵力が動員され、熊本は焼野原となり、西南の戦禍に泣いた。官軍の戦死者6 千余、戦傷1 万、西郷軍の死傷2万余というが確実なことはわからない。東北に西南に深い傷痕を残した明治維新は、薩長藩閥政府、官僚独善体制を残して終わった。この体制は今なお続いている。

 

柴五郎の遺文は、国家民族の行末を末永く決定するような重大な事実が、歴史の煙霧のかなたに隠匿され、抹殺され、歪曲されて、国民の眼を欺いたばかりでなく、後続の政治家、軍人、行政官をも欺瞞したことが、いかに恐ろしい結果を生んだかを、見せつけられのである。昭和20 年12 月13 日祖国の最も惨めな姿を見るに堪えないかのように、柴五郎翁は87 年の生涯を断って痛恨の永眠についたのであった。