「道程」の美学

Life Heart Message2016.12.14

 

1904 年にフランスの数学者アンリ・ポアンカレ(1854~1912)によって示された「ポアンカレ予想」は、数学史上の難題は解明不可能と言われ、多くの天才数学者が敗北を喫していた。文字通りの意味で学者人生を棒にふった人も少なくない。所詮、解などありはしないのだ、と主張する人すらかならずいた。

 

ところが、2006 年、ロシア人のグレゴリー・ペレルマンによって、この問題を解明した。これだけでも驚愕の事実だったが、さらに驚かされたのは、彼は従来の数学者たちとまったく異なる道程だった。彼は、物理にも深く通じていた。

 

近代の分類からすれば異分野の領域に裏打された視座が、近代数学最大の問題を解く決定的な糸口になったのだった。この出来事は、近代における知の在り方に根源的な問いを投げかけている。かのデカルトは物心二元論を説いたが、彼の著作を、できるかぎり先入観を排除して読むと、物心が二元的であるとはどこにも書かれていない。むしろ、彼が探求しようとしているのは、見た目には、別々に存在しているように映る物心が、なぜ同時に一なるものであり得るか、という問題だった。

 

デカルトにとって「哲学」とは、単なる論理の体系ではない。むしろ、一すじの道のようなものだった。そのことを実感するには、どうしても自分の足で歩いてみなくてはならない。それは論理的整合性の中よりも、論理的矛盾の彼方に真実があることを証する営みだった。この矛盾をはらみながら生きているのは現代人の方かもしれない。心の存在をまったく忘れた医学は、心と身体を別々に扱いながら、見えるもの、ふれえるもの、あるいは計測できるものだけが存在するとされているようだ。だが、デカルトはそう考えなかった。彼には、魂の実在も、魂として実在する死者も、はっきりと認識されていた。「省察」と題する彼の著作には、人間を超え出るものへの真摯な憧憬、沈着かつ持続的な思索がある。

 

「哲学」とは一面から言えば机上で学習する対象であるより、私たちが迷ったとき、自らの進むべき道を照らす光のようなものではなかろうか。人間には誰しも担わなくてはならない人生の問いがあり、それは他人に背負ってもらうことはできない。

 

自己を生きるという使命においては、優劣や意味の大小は存在しえない。それぞれが固有の存在であることが個々の人間に宿っている冒されざる尊厳の根拠となっている。

労働と哲学は分離しない。働くことが哲学の表現であり、哲学の種子は、行動の中に宿されている。疾走する者には、道端に咲く花は容易に目に入らない。その花弁を彩る神秘と真実はけっして知られない。

 

分かろうとすることが、情愛の証であるなら、いつでも立ち止まれるようにゆっくりと歩き始めることはその顕われであるかもしれない。また歩くことは、挨拶のようなものかもしれない。それは分かることから分かり合うことへと育って行く道程かもしれない。