「艱難」の美学

Life Heart Message2016.02.06

 

明治30 年、高山の畳職人夫妻に、可愛い子供が11 年目にさずかり、両親の喜びははかり知れなかった。しかし、この子が3 歳の時、突発性脱疽(だっそ)にかかり、両手両足を切り落とされ、達磨のような姿になる。彼女が7 歳の時「たとえ乞食になっても、死んでもお前を

離さない」と言った父親が死去。両手両足のない7 歳の娘と満2 歳の長男をかかえた母親は再婚する。長男は育児院に送られ、母親は手足のない娘に猛烈な鬼の教育をはじめるのである。着物を解くこと、鋏の使い方を考えなさい、縫って見なさい、と泣いても喚いても、一つのヒントも与えなかった。

 

母親の心を鬼にしたことによって、12 歳の終わりごろからチエがわき、工夫が生まれて、何と小刀で鉛筆を削り、口で字を書き、ヘラを使って反物を裁断し、歯と唇を上手に動かして、魔術のような技術を生み出したのである。この血に滲む怒力によって、15 歳の時、初めて単衣(ひとえ)一枚を縫いあげる。祖母は彼女を抱きしめ「これはお前が縫うたんじゃない。仏さまと、亡くなったお父様が、お前に力をつけて下さったんじゃ」と、声をあげて泣かれた。

 

20 歳を迎えたとき、彼女は一人で生きて行くことを決意し、自ら進んでわが身を見物小屋に売り、今まで母親が背負い込んでいた借金を完済して自立する。この女性こそ、中村久子である。「だるま娘」と名づけられ裁縫や編物、短冊や色紙に字を書いて売る見世物芸人として、26 年間の苦闘がはじまるのである。―――

 

24 歳の時、結婚し、長女を出産する。この夫は1 年後に腸結核で亡なり、再婚のすすめを受け再婚するが、わずか1 年11 ヶ月で急性脳膜炎で死去の不運にみまわれる。29 歳の久子女史は4 歳と2 歳の子をかかえて途方にくれ、万止を得ず3 度目の結婚に踏み切ったのは、見世物興行の世界は男手なしではやって行けなかったからである。だが、酒と女と賭博に明け暮れる主人に、8 年間辛抱するが、三女が生後十ヶ月で亡なり、たまりかねて離婚を申出ると、手切金を要求し、家一軒が建つ大金を情け容赦なく奪っていった。

 

労苦がたたり、医師から「あなたの体はもう駄目だから、家に帰って養生しなさい」と言われたが、働かねば生活が破滅しますとニンニクを食べつづけて治す。

 

その頃、一流月刊誌の懸賞募集実話に一等入選した手記に感動した東大教授によって義足を提供される。しかし、2 年後病が再発。この時、重度の障害者でありながら、明るく輝いて神々しい美しい姿の座古愛子女子との出会いによって、はじめて「渡る世間の鬼の人々

も自分を鍛えてくれた尊い仏たちであった」と覚知する。「私を救ってくれたのは、訪ね歩いた高僧や、哲人や、学者ではなく、手足のないこの体であったのだ」と、「逆境こそ神の恩寵である」とさとる。

 

中村久子女史41 歳の時、ヘレン・ケラー女史との初会見が実現し、中村女史の体を抱きしめ、あふれる涙を拭おうともせず、ながい接吻のあと、「私より不幸な人、そして私より偉大な人」と泣きじゃくりながら、抱きしめた手を離そうとしなかった。「人生に絶望なし、いかなる人生も決して絶望はない」と言っていた中村久子女史は、昭和43 年、自己の体を岐阜医大に献納を申し入れ永眠する。

 

慧光照無量・・・・・・