「花」の美学

Life Heart Message2016.02.13

 

むかしはよく「花のある人」という表現をすることがあった。一方、その逆の「あの人には悲しいけれど、花がないね」という言い方もあった。「花のある人」、これは人間としての資質としかいえないものかも知れない。その人が部屋に入ってくるだけで周囲がパーッとあかるくなるような雰囲気がある。別に愛嬌をふり撒いたり、方々にニコやかに会釈することもない。

 

「花のない人」は、才能があったり名声があったり、また、学校長とか本省の次官とかの位のある人が、部屋に入ってくるだけで場が暗くなることがある。これはあくまでも感覚の問題であり、「花のある人」の交友関係を持っていれば幸せであろう。

 

説明しきれないもの、それに耳を傾け、心で感じようとする、それが人間の豊かさのもとになる。「近くして、見難きもの、わが心」「雖近而不見(すいごんにふけん)」との厳しい言葉に自省するのみだ。

 

ヨゼフ・ロゲンドルフ氏は、戦後の日本人は、古い論理や観念はすべて「封建的」と言う言葉で片付けてしまい、おそらく「一次元主義」ともいうべき“迷信”にとらわれてしまった、という。「人間生活にただ水平面だけを認めて、左か右かにきめろというイデオロギーである。しかし、人間生活には垂直面もある。高さと深さがある。空虚になった空間をふたたびみたすべき答えは、ここに求められる」この精神のカテゴリーを認識した時から自分よりも価値ある存在への畏(お そ)れや憧憬(どうけい)が始まる。

 

つねに「自分を善」とする尺度ではなく、他者の良き価値が流れ込んでくることによって、自分の精神が肥育されることになるのではなかろうか。サン・テクジュペリは「生きるということは、徐々に生まれることである」といったが、この「徐々に生まれる」とは、今日よりも明日の自分が新鮮だということで、また「生きる」ことの左証であろう。また、「日記とはペンを手にした瞑想である」といったのは、スイスの哲学者アミエルであった。

 

彼は「生きるということは、日ごとに快癒し、新しくなること、また自分を再び見出し、回復すること」という。一方アナイス・ニンは日記について「あなたにむかって書くことは、開花するために必要な暖かい環境の幻想をわたしに与えてくれたのよ」という。

 

人間の「花」をひらいた言葉に置きかえてみると、「持ち味」「雰囲気」「人柄」などであろう。600 年前に、世阿弥が「花」について用心深く追求し、能の稽古について、十二、三歳のころの「花めいた姿」「花めいた音声」は「ただ時分の花なり」といっている。その時、一時の花であって、「真の花」ではないという。しからば、「真の花」とはなにか。

 

結論からいえば「時分や季節を超えた幽玄味」ということで、言葉をかえれば「花があるという意識すら捨てた境地」であった。一時の花だと覚悟した女性は「花の色はうつりにけりないたづらに、わが身世にふるながめせしまに」と詠んだ。“時分の花”を得意がることなく、花のもつ雰囲気や、やさしさとか、ひとつの独立した価値として自分の身につけてゆくほかはない。たとえ他人の人柄に咲いた花でも、その花のたたずまいを学ぶ美意識だけは大切にしたい。見る花を自分の「花」にしてしまう心のかよわせ方があり、それが人格をつくることにもなろう。