「啓蒙」の美学

Life Heart Message 2017.03.27

 

1694 年パリの裕福な公証人の家に生まれた、フランソワ・マリー・アルゥーエは、虚弱であったが早くから天才的な片鱗を示す少年であった。父親は愛する息子をしばしば伴って自由思想家たちのサロンに出ていた。幼い魂は早くから自由な思想の洗礼を受けたのである。

 

10 歳のとき、彼は貴族の子弟の多いルイ・ル・グラン校に入学、早くも神童の誉れ高く、その文学的才能に魅了された師の神父たちは彼に古典的教養を授けるのに熱中した。父親は出世の常道であった法律家を願ったが、息子は、文学こそわが天職とゆずらず、すでに面識のあった自由思想家のグループと往き来し、反宗教的思想を表明し、エピキュリアンとして、持ち前の機知と軽妙な諷刺詩で一部のサロンの注目を浴びはじめる。

 

1715 年、ルイ15 世の摂政の品行を諷刺した詩を発表したことで1717 年、彼は11 ヶ月間バスティーユに投獄される。獄中で書き上げられた悲劇『オイディプス王』は出獄した翌年国立劇場コメディー・フランセーズで取り上げられ、大成功を博し、彼は文学者としての第一歩を踏み出す。この時からヴォルテールと名乗り、一躍社交界の寵児となった。

 

だが、1725 年、名門貴族の一人と口論でやり込めた事から、一族は当局に手を回して、彼はバスティーユ牢獄に送り込まれる。さすがに当局もこの措置に気がさしたのか、数週間後ヴォルテールのイギリス亡命の願いを許す。

 

ドーヴァー海峡を渡った彼は、フランスにはない、政治、信仰、思想の自由に、経済から哲学、さらに科学や種痘にいたるまで、彼の好奇心はあくことを知らなかった。3 年間の滞英中に、書き続けていた叙事詩『アンリャッド』の出版は16 世紀のフランスを二分した宗教戦争を終わらせ、統一と平和をもたらしたアンリ4世の偉業をたたえたこの叙事詩は、彼にフランス最初の大叙事詩人の名声をもたらした。ヴォルテールは、フランス社会のひずみや、政治や学問の遅れや、さらにカトリック教会の弊害を説き続けたため、政府と教会に衝撃を与え、作品は焼かれ出版者は逮捕された。

 

彼はパリを脱出することができ、1734 年から10 年間シャトレ公夫人の所領の館で執筆を続ける。その後も自由にものが言える地を求めて各地を転々とする。60 歳を迎えて彼は文学者から啓蒙思想家として偏見と狂言とに闘いを挑む実践活動に傾注する。彼は無為をしりぞけ、各人が強く生き、進歩と幸福のために努力を続けることを教える。世の悪弊、教会の腐敗、裁判の不正に対する大キャンペーン、数々の事件の裁判の誤りを指摘してやめなかった。法の不正に対して人類の擁護者として、彼は世間を目覚めさせ、世論を興し不正を糾弾した。

 

28 年ぶりにパリに帰還したヴォルテールは市民の熱狂的歓迎を受ける。その後過労で衰弱しながら筆を離さなかったが彼はついに5 月30 日、84 歳で不帰の人となった。パリの大司教がヴォルテールの埋葬を拒否し、国王もカトリック教を支持したが、フランス革命の到来によって国家偉人廟パンテオンに祀られる。

 

国民は彼が法の不正に対して人権の擁護のために闘った事を忘れなかった。