「桜花」の美学(Ⅱ)

Life Heart Message2017.04.03

 

激しい冬のあとに来る桜の花は、待ちに待った春の到来のシンボルである。3 月と4 月のさまざまな別れと門出、そして出会いと親睦の背景に、桜があった。満開の喜びはもちろん散れば散ったでまたその風情をいとおしみ、たった一つの花の動静に自らの心情を重ね合わせ全国民が一喜一憂することなど、おそらく他の国々にはないであろう。

 

美術にみる桜は、源氏物語をはじめとし、平安・鎌倉期の絵巻を見ても、桜を描いたものが多い。色といい、姿といい、大和絵にはうってつけで、時代の精神を現わしている。

 

大和絵に咲いた花は、やがて合戦の巷(ちまた)をいろどる。「ささ波や 志賀の都は荒れにしを むかしながらの 山ざくらかな」と、この歌を遺して、都を落ち、一の谷の合戦に華々しく散って行った、薩摩の守忠度のこの歌の美しさは、そのまま小桜威(おどし)の姿であり、桜の鞍の優雅さを表していた。花も実もある武将を懐い、「昔ながらの山ざくら」は、やはり平安朝の調和の上に開いた花であった。

 

だが、実用と美を兼ねたのは、武具だけではない。日常の生活用品を日本人ほど花で飾ったものはないだろう。たとえば「花の白河」と呼ばれる硯箱は、新古今集、飛鳥井雅経の歌、「なれなれて見しは名残の春ぞとも など白河の花の下かげ」を主題にしている。

 

室町末期からの絵には、「花下遊楽図」「洛中洛外図」などが盛んに造られた。その中で桜は春の象徴として、欠くことのできない背景であったが、なんといっても、それに拍車をかけたのは、万事派手好みの秀吉であったろう。ぱっと咲いて散って行った秀吉の一生は桜の花に似なくもないが、事実彼は稀代の桜好きであったようだ。吉野の花見、醍醐の花見など、永遠の語り草となっている。

 

吉野の花見は、文禄3 年に行われた。朝鮮の役が失敗に終わり、国中が意気消沈していた頃で、政策と趣味を兼ねていた。花見といっても、普通の花見ではない。天下の武将5 千人を従えるといった豪華な行事であった。ここでも桜と人物は混然ととけ合い、むしろ花の方が大きく描かれている。

 

醍醐の花見は、それから4 年後の慶長3 年のことで、その後いくばくもなくして秀吉は死去する。日本人ほど桜に意味づけをし、詩歌や物語に取り付けている民族は外にない。

 

桜の家紋は百種を越え絢爛たる華やかさである。

 

「枝垂桜(しだれざくら)の丸(まる)」高め合い成長し合う“繁栄”

 

「枝彼岸桜(えだひがんざくら)」目的に向かって進む“実現”

 

「三つ陰桜(みつかげざくら)」物怖じせず自信を持った“風格” などを表す。

 

「花は桜木、人は武士」の言葉もある。

 

華やかで、それでいて清楚な桜の花ことば「純愛・精神美・心の美」「Spiritual Beauty」と

 

・・・・・桜花爛漫の精気を感受されん事を・・・・・・