「直訴」の美学

Life Heart Message2017.04.24

 

島原・天草の乱の原因は、領主の苛酷な年貢の取立にあった。「種油と農民は絞るほどよく取れる」と、無神経に搾取されても、それに甘んじて、めったなことでは反抗しなかった。忍従と忍耐で、食うや食わずの生活に追いこまれ、年貢が払えなくなった時、領主は、子ども、主婦を水責め、火責めにし、老いた父母に焼火箸をあてられ、家の当主は、むしろに巻かれて水に流された。この生き地獄にキリシタンの教えに救いを求めた。

 

しかし結果は、幕府の権力の刃で、城も田畑も山野も、キリシタンの血の無残な人間の屍(しかばね)の山となった。原城落城寸前に、デウスの生まれかわりといわれた天草四郎の、もがき苦しむ姿を見て、天国の存在を疑った。

 

寛永15 年(1638)2 月28 日3 万7 千人の無常の死をもって島原・天草の乱は遂に終わった。松平伊豆守信綱は藩士松倉勝家を激しく叱責したあと、徳川譜代の幕臣鈴木三郎重成に、乱後の行政指導を命じ、民心の安定につとめよと指示。天草調査は精密な26 冊の『天草亡所仕置』には、島民の30%がこの乱で死に、耕す人がなく、荒れ果てて手のつけられない亡所の領土で、天草の城主寺沢堅高は冷酷にも、天草の石高を強引に延縄検地して、1割2分3厘をふやし、四万二千石として幕府に報告していた。

 

寛永18 年(1641)9 月19 日に天草代官に正式に任命された鈴木重成は着任早々、兄の仏法者鈴木正三こそ「亡所天草」の民の心を救うことができると、協力を願った。正三、重成兄弟は、根気づよい説得と仏教の慈悲の心をもって民の心に融けこませていった。

 

だが、不作、凶作、また暴風雨が2 年も打ちつづき民家の多くが流され、田畑は損耗し、百姓の年貢減免と、永年延べ払いの要望に、重成は幕府に再三の要請にもかかわらず、それは聞き容れられることがなかった。天草の民を飢え死にさせてはならぬと、陣屋と城内のお蔵解き放ちを独断で命じた。

 

承応2 年(1653)将軍直訴に及んだ。そして切腹。上書には「微臣(びしん)鈴木三郎九郎重成恐惶頓首(きょうこうとんしゅ)し謹んで言す臣敢(あえ)て規(き)を踰(こ)えて上表(じょうひょう)する所以(ゆえん)のものは・・・天草の地 山野嶮岨(けんそ)にして見るべき平地沃土(よくど)なく また旱天風雨(かんてんふうう)に弱し 曩(さき)に寺澤志摩守廣高殿 地を檢(けん)して四万二千石に査定(さてい)租石(そこく)を徴(ちょう)す 臣具(つぶさ)に島内を巡察し農事 水利に挺して砕身するも 非才はその石高(こくだか)の租(そ)に至(いた)らず 此處(ここ)に微力を嘆(なげ)きて遂に泣訴(きゅうそ)に及ぶ 罪万死(つみばんし)に当(あた)れり・・・民久(たみひさし)く飢え流氓(りゅうぼう)の機張(きみなぎ)り再び騒乱(そうらん)の萌芽(ほうが)兆(き)ざす 臣年六十六歳今老産(もうざん)して是非の判断衰(おとろ)へ處置に窮(きゅう)して大訴(たいそ)を撰(えら)ぶ 何卒(なにとぞ)石高半減(こくたかはんげん)の仁慈(じんじ)を垂(た)れ給(たま)ひて 彼の窮民(きゅうみん)に大恩(たいおん)の厚きを示されん事を 筆(ひ つ)を染(せん)して聖明矜察(せいめいきょうさつ)を偲び 痛絶(つうぜつ)し表(ひょう)に涕泣(ていきゅう)して云ふ所(ところ)を知らず微臣重成恐惶謹言(びしんしげなりきょうこうさんげん)」

 

百姓のために自刃した事に幕府は驚き、慌てて減免を検討し実現する。

 

身をすてて、「衆生大衆を下化(すく)う」利他の人「鈴木重成」は、名代官として末長く追慕され、「鈴木神社」が建立される。かの天草四郎より、はるかに高く輝いている。