「義理」の美学

Life Heart Message 2017.05.01

 

関根只誠は幕府の魚御用達「松屋」の家に生まれた。名を正亮(しょうすけ)、七兵衛と称した。只誠は号である。大変な蔵書家で、かつ、読書家でもあった。読みながら、メモを取り、そうして成ったのが、『名人忌辰録』である。学者文人、工芸技術の達人、あるいは奇人など、有名人であっても、文芸をたしなまず、風雅に遊ばぬ者は省く、という見識を示した。義侠に富んだ人物で、頼まれると断らずに首尾よく果すため、慕う者が多かった。

 

樋口一葉は関根只誠翁と知りあったのかは不明であるが、ある朝、新聞の訃報記事に「関根只誠翁、六十九歳逝去」を目にし、弔問に行きたいのは山々だが、明日の米にも事欠く身で、義理を果たすべきか、と考えざるを得ない状態を「家は只貧せまりにせまりて」と記し、結局、妹と話しあい、知人から金を借り、母親が関根家に弔問に出かけた。

 

一葉の日記に、以上のいきさつを記し、こんな狂歌を書きつけた。「我こそはだるま大師に成りにけれ とぶらはんにもあしなしにして」あしは足で、銭に掛けている。俗に、銭をお足と言う。入ってきても足ある者のように、すぐ出て行くからである。

 

当時、一葉の一家は、母と妹の三人世帯で1か月の生活費が十円であった。一葉が「たけくらべ」を発表して、文名の一時に上がり、天才女流作家現わると大騒ぎであったが、一葉がこんな苦労をして香典をこしらえていたのであった。世間の人は知らず「いかなる人ぞや、おもかげ見たし」と、つてを求めて訪ねる人も多かった。

 

小原與三郎も一葉宅に押しかけた一人であった。この若い読者は、長時間話しこみ一葉に感激し、礼状を認めたのは偉いが、一葉宅から帰宅後、「君よりも端書(はがき)の一本」ぐらいはくれるかと心待ちにしていたが、幾日まっても来ない事から、さんざん言いたいことを言って「怒りたくば怒り給へ」と向かっ腹を立て、あげく、この手紙は妹様にもお見せ下されたく、とちゃっかり書き添えたあと、先日お話しした「拙者ヘボ小説(霜夜の月)を一部郵送したので、何とぞ添削願いたい」と図々しい。

 

一葉日記によると、十七、八枚の生原稿で、さすがの一葉もあきれて、返事を書いている。そして一葉のやさしさは、「さりとも原稿のことは別なり」博文館の月刊文芸誌『文藝倶楽部』に紹介するが、それでよろしいか、と小原に問い合わせているのである。小原は自分の無礼な手紙を気にして、反省し、その後上京のつど一葉のご機嫌を伺っていた。

 

一方、一葉の作品に注目していた副島八十六氏は、一葉は病臥していたが会見した事を、副島日記にある「下層社会の救済の急務なるを説くや、彼女最も熱心に之に同意し彼女亦(ま た)予に説く所多かりき」。面談は、一時間に及び「予は満足と希望とに満たされてやがて女子の許を辞しぬ」

 

一葉の訃(明治29 年11 月23 日)を知った副島氏は樋口家を弔問した。会葬者はざっと「十有余名」にすぎず「裏店の貧乏人の葬式といへども此れより簡なることあるべからず」これが文名四方に轟く一葉の葬儀であった。

 

・・・・慧光照無量・・・・