「晩鐘」の美学

Life Heart Message2017.07.31

 

格式のある家柄の農家に生まれた少年は、我慢強さとプライドの高さを母親から、芸術的天分は父親から、また宗教的なカリスマ性は、祖母から譲り受けた。彼こそはフランソワ・ミレーであった。祖母曰く、「私の愛しい子よ。おまえが神のご命令に背いたり忠実ではなかったりするのなら、むしろお前の死を見送る方がましというものだよ」祖母や母は、家の没落を知りながら、貯金をはたいて彼の才能に賭けた。

 

ミレー21 歳の時、父親の死によって進路に迷い画家修業を中断するが「父の遺志」だという祖母の勧めでパリに出る。生活のための売り絵を描く「貧乏生活」を開始する。結婚して2 年半で子と妻を失い、気落ちしたミレーは一年後、家政婦をしていたカトリーヌ・ルメールと、モンマルトルに移住。伴侶を口説いて裸にして裸体画を描いたため「裸の女しか描かないミレーという画家」との評判に反発したミレーは、以降のテーマを田園に求め、1849 年芸術環境の整ったパリを捨て、バルビゾンの村に移住する。

 

野外の大気はミレーの生命を目覚めさせ、自然に魅了され、ゲーテのように「ああ神よ、天の下にかくも多くの物を恵賜うたのか!」と叫ぶ。自然を師とした農民の絵は、「説教臭い」とサロン展評したのはボードレールであった。都会人の農民差別を露骨に表した批評であった。

 

またミレーの「種をまく人」は美術界に騒ぎを起こしたが、若い画家の一派の間で評判となった。「行け、種をまけ、貧しき労働者よ、小麦を大地に両手いっぱい投げつけよ!

 

大地は豊かな実りを生むが、来年も汝は貧しく、額に汗して働かなければならないであろう。彼は現代の民衆の擬人像である。」という檄文があった。

 

1857 年に注文を受けて描いた「晩鐘」は、宗教的な感謝の祈りに通じる精神の安寧を表した名作であったが、依頼者がこの絵を引き取りに来なかったために1859 年末までミレーは待ったが、諦めて翌年1000 フランで売りに出している。その後持主を転々としながら値段はうなぎ登りとなり、1890 年にフランスの百貨店社長が80 万フランで買い戻し、1909 年に国家に遺贈されてルーブル美術館に入り、次いでオルセー美術館に納まり「晩鐘」は長い旅を終える。

 

1867 年パリ万博美術展では一室を与えられてミレーの個展を開催。同年サロン展にて一等賞を授与され、翌年にレジオン・ドヌール勲章を受章する。常に研究熱心で、ミレーはその時代の先端的エコロジー思想を持っていた。フォンテーヌブローの森を守るために立ち上がり、ナポレオン三世の皇后ウジェニーに直訴状を送り、一帯を美観区域に指定させて森を守ったために、1884 年に共に戦ったルソーとミレーの二人の画家の記念碑が、森の入り口に立てられている。

 

ミレーが胸に刻んでいたチャニングの格言に「社会の偉大な貢献者は一つの行為によってそれをなすのではなく、高次の生活と精神の宣言がその者の性格となって世を照らす」

 

ミレー作品が入っている美術館の公的コレクションは、世界中で150 にも及ぶ。このような画家は世界には珍しい。………