「足跡」の美学

Life Heart Message 2017.08.21

 

江戸初期に活躍した俵屋宗達は、生歿すら知られていない謎の画家であった。宗達が歴史上にその足跡をのこす最初の出来事は、1602 年(慶長七)35 歳の時、平安末期に平清盛が厳島神社に奉納した国宝『平家納経』の経巻の補修を、広島城主福島正則の命によって依頼され、この時「願文」法華経の『化城喩品』『属類品』の3 巻の表紙絵と見返し絵の計六図を宗達が描いたと言われていることから、いかに実力が評価されていたかがわかる。

 

39 歳の時、書家で工芸家で才能を発揮していた本阿弥光悦と、多くの和歌色紙を共作する。47 歳になるまで俵屋を名乗り、千利久の息子小庵らを招いて茶会を主催していた。

 

宗達の水彩画の独自性は、狩野派や雪舟のような線を重視する漢画系水墨とは基本的に異なり、中国の画家牧谿に倣ったと言われていたが、部分的応用で、宗達の創造的スタイルの質の高さは、芸術面と技術面の独創性は、他の追随を許さなかった。

 

宗達の絵は、動きや躍動感があり、重要文化財の『紙本金銀泥鶴図下絵和歌』の絵に三十六歌仙の和歌を書いていたのは本阿弥光悦である。また、六曲一双の屏風、幅7 メートルの大画面に海岸風景がひろがっている『松島図屏風』は巨大な波の絵巻で、息を呑む迫力に圧倒される。この作品は1906 年(明治39)にチャールズ・フリーアが購入してアメリカに渡り、フリーア美術館に寄贈する際に門外不屈とすることを条件としたために、日本人が目にすることがほとんどない。

 

宗達歿後およそ20 年後に生まれた尾形光琳が、宗達の作品を忠実に模写した『風神雷神図屏風』や『槇楓図屏風』を描いたのは、光琳50 代のことだった。代表作『紅白梅図屏風』は宗達への挑戦であり、光琳芸術の完成を意味する重要な作品である。

 

岡本太郎は「宗達の作品には微風が漂い、吹き抜けて行く音さえかすかに聞こえるようであるのに、光琳の画面は全て拒否する。……そして認めなければならないもっとも恐ろしい事実――彼の梅からは梅の何ものをも感じられない。美しい流れには実は何も流れて居らず、あの燕子花の大群の周囲には地も水もない。あの群青の花弁の群りはただ真空の中に咲き誇っているのである。凡ゆる幻想も思い出も拒否される。画面以外に何もない世界。これ等こそ我が国の芸術に極めて稀な、非情美をたたえた傑作である。……私は彼の非情・孤独・純粋にふれて、芸術家の悲劇的な宿命に絶望するのである。」と言った。

 

光琳は分析や計算から入って物の関係を明らかにした「知」の人であった。酒井抱一は物の関係を味わう人で「情」の人である。宗達は物の関係を自由意志を本望として、革新的な表現を苦もなく行ってしまう個性はまさに「意」の人であった。