「所作」の美学

Life Heart Message 2017.09.11

 

古代ギリシャの哲学者プラトンは、善を最高の地位に置き、学ぶべきものの最大のものであるとした。そして善真美に正を置いて、利と快の価値へと続く。これらあわせて6 つの価値「善真美正利快」と位置付けられるのを、古典的価値と呼ぶことができる。

 

我々が価値あるものといえば、「役に立つもの」、有用なもの、得になるもの、つまり<利>に限定しがちである。快のみならず、利もまた監視されなければならないのは、利において働くのは、知性ではなく、利害打算の素早さ、利便さ、つまりはただの高度の知能でしかないからである。しかし、価値あるものとは、本来、広く「善きもの」のことでなければならない。

 

プラトンも「正なるものはすべて美ではなかろうか」と言われ、「美は善と同一であることが明らかとなった」正義の立場は、美を経て善に通じる事実をプラトンの著作においてしばしば「善美なるもの」と言った。

 

日本においては、こうした正義に相当するのは「正直は一生の宝」といわれる“正直”であり、素直(すなお)とか素心(ソシン)といわれるような「素であること」であり、それは、ヨーロッパでいう正義よりも一層、美しさに直接すぎて、人間の行為についての判断も「見よい」「見っともない」「見にくい」という美醜の判断が、善悪の判断よりも重んぜられていた。

 

28 歳のニーチェの処女作『悲劇の誕生』の準備稿に「わが哲学、プラトンニズムを、逆転せしめしもの」と、最下位にあった「快」こそが、首位につく。「すべての価値は転換される」と言ったが、39 歳から47 歳にかけて書かれた「ツァラトゥストラかく語りき」では、「お前は、夜半に、古く重く唸る鐘が時を打つのを聞く。その一から十二までの間にあのことを思うだろう。」

鐘が鳴り始める。「一つ、おお、人間よ、心せよ―――二つ、深き真夜中は何を語る。……七つ、世界の悲痛は深い。―――八つ、快よー苦痛よりなお深く。—――九つ、悲痛は言う。消え去れと。―――されどすべての快は永遠に願う。……十一、深い深い永遠に願う。」しかし第十二の鐘の音は鳴るのみで、あとには、しじまだけが残る。

 

ニーチェは言った。「真に対する感覚」として、「汝、偽ることなかれ」という道徳が棄却されるならば、「真に対する感覚」は、別の裁きの場で自らの正当たることを宣せねばならぬ。」と。‥‥‥そして「美だけが悔悛をうながす力をもっている」と言った。

 

カナダの天才ピアニストのグレン・グールドは、夏目漱石の「草枕」を、最高に評した。その中で「余は画工である。…たとい人情世界に堕在するも、東西両隣りの没風流漢よりも高尚である。……詩なきもの、画(え)なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美しき所作が出来る人情世界にあって、美しき所作は正である。義である。直である。正と義と直を行為の上にお

いて示すものは天下の公民の模範である。」と…‥純なる正直こそ、美しきものであり、心にかなう喜びであり、天からの甘露の恵みであろう。