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「観測」の美学

Life Heart Message 2017.10.23

 

1975 年6 月24 日、ニューヨーク、ジョン・F・ケネディ国際空港で、イースタン航空66便(当時、名機と謳われたボーイング727 型機)が、着陸に適した風速3 メートルの絶好の風の中滑走路へ進入して着陸態勢に入ってからわずか4 分。轟音を上げながら地上に落下する。

乗員・乗客124 名のうち112 名の命が一瞬で奪われた。

 

当時、アメリカで起こった最悪の航空機事故だった。原因調査はアメリカ政府の航空機事故調査機関NTSB によって行われていた。18 ヶ月に一度の割合で100 名を超す人々が離着陸時に突然、上空から地面に叩きつけられ、一瞬にして命を失う”謎の墜落事故”が頻発していた。

 

1975 年12 月、事故を起こしたイースタン航空本社より、シカゴ大学の教授藤田哲也氏の元へ原因究明の依頼があった。それはパイロットの人為的なミスが原因であると片付けられようとしていた流れに納得がいかないイースタン航空が、この謎の解明を彼に託したのである。

 

藤田哲也氏の人生の空路は、1947 年8 月24 日福岡と佐賀の県境に位置する脊振山(せふりさん)の観測所に嵐が吹き荒れた時の観測結果をもとに雷雲の下降気流の存在を突き止めた事を書いた論文を、シカゴ大学のホーレス・バイヤース教授へ送った。それを読んだバイヤース教授は藤田を招聘し、アメリカでの気象学者としての生活となる。この渡米のきっかけは背振山の米軍レーダー基地のゴミ箱に捨てられていた論文だった。それを見てバイヤース氏の存在を知り、思い切って自身の論文を送ることができたのである。また、1945 年8 月の長崎での原爆調査の体験が30 年後、藤田氏をダウンバーストの発見へ導いた。すべての起点は長崎に投下された原子爆弾だった。その爆風は、地面へ到達し、衝撃波となって街を襲い、すべてのものをなぎ倒し、多くの人の命を奪った。

 

日本とアメリカ、2 つの国の戦後を生きた藤田哲也氏が歩んだ人生は、人の命を救う研究へと転化させた。仕事をやりやすくするために、アメリカ国籍を取り、従来の常識に囚われることなく、独学の研究は、専門家をも唸らせる内容をもっていた。1978 年5 月ダウンバーストの初めての観測成功は、まさに気象史に残る瞬間だった。1983 年アメリカ大統領ロナルド・レーガンを載せたエアフォースワンが着陸寸前に、強力なダウンバーストにニアミスするとい

う事件が起きた。事態を深刻に受け止めたアメリカ空軍は、藤田氏に調査を依頼する。自然と対話し自然を理解し、自然から学んだダウンバーストの発見によって墜落を未然に防げることは気象史はおろか、人類史における偉業でもあった。1989 年11 月24 日、69 歳の藤田氏は航空安全への貢献が評価され”気象界のノーベル賞”「フランス国立航空宇宙アカデミー金メダル」を受賞する。エールフランスの計らいで、超音速旅客機コンコルドのコックピットの中で

雲の観測をした事を「私の一生の中で最も有意義な3 時間半」世界的な名声を得ても、子供のような心は変わることはなかった。1998 年11 月19 日早朝Mr.トルネードテッド・フジタはシカゴの自宅で逝去(享年78)。

 

慧光照無量