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「器量」の美学

Life Heart Message 2017.10.30

 

南部藩で代々家老を務めた家の出身であった原敬(たかし)は、戊辰戦争に敗北し、その藩士たちが賊軍の汚名を着せられ、官軍により占領された少年期の体験は、彼の反骨精神を生命に刻印する。

 

士族の身分を捨て上京、だが学費につまり、カトリックの神父の学僕となって苦学して漸く入学する。司法省法学校において、騒擾に参加した廉で退校処分を受ける。だが、薩長出身者は退校処分に付されなかった。ここでも差別を受ける。新聞記者となり、井上馨の知遇を得て外務省に入り、陸奥宗光と出会う。

 

原敬は、「一山」と号したのは、戊辰戦争後、官軍側が「白河以北一山(ひとやま)百文」と嘯(うそぶ)いた故事

を踏襲し、自分は、一山百文の土地から出て来た賊軍側の人間である事を強く意識していたが、短絡的に反政府的立場を取ることがなく、むしろ政府側に身を置いていた。

 

彼は官軍側の人間の薩摩の方や、長州、土佐の文士とも、仕事となれば、きちんとつきあったのである。彼は露骨に薩長人を嫌悪したり、排斥するような安っぽいものではなかった。

 

明治24 年、松方内閣が海軍予算で議会の厳しい追及を受けた海軍大臣、樺山資紀が激高して、「日本の今日あるは薩長のためなり、諸君らはしきりに薩長薩長というが、維新を誰がしたと思うておるか、諸君らが今日安泰でおられんのも、一に薩長のお陰じゃなかか」と発言し、この「蛮勇演説」に議会は騒然となる。

 

当日、農商務省に勤めていた原は、日記に「説の当否は暫く置き此演説は各大臣の演説中尤も力ありしものなりき」と記していた。彼は簡単に怒ったり、怒鳴ったりする甘いものではなく、冷静で、内側に籠っていくような、重く鋭い怒りを秘めていた。そして、じりじりと権力中枢に近づいていって、ついにはそれを丸ごと手中にした。大いなる器量人といえるのではなかろうか。政党政治家としては、近代日本で最強の平民宰相と云える。彼の世話になっていた大野伴睦は、「味方にすれば、こんなに頼りになる人はいないし、敵に廻せば、これほど手強い相手はいない」と云った。

 

原は、人材というものが、いかに得がたいかを熟知していた。「来る者は拒まず、去る者は追はずと云ふは疎(う) とし。来る者は拒まずは然り、去る者も追うべし」自分を嫌って去る者でも、能力のある人間は追いかけてでも失う事のないようにした。

 

西園寺公望は「原の細君は新橋の下等な芸者で……」と貶したが、原は字の読めない彼女と仲がよかった。原敬が暗殺された時、妻である彼女は、閣僚たちの意見を制し、遺書にそって、芝の自宅に運ばせ、授爵を拒否し、東京での葬儀は行わず、手元にあった党の資金を一銭まで細かく精算して返却した末に、遺骸を盛岡に運び、原が以前に指示した通りの墓を作った。その墓石には、ただ原敬墓とのみ書かれていて、経歴等は一切記されていない。


大久保の暗殺、伊藤博文の暗殺。だが原敬の暗殺ほど、近代日本史に大きな影響を及ぼした事件はない。彼の代役を務められる器量の政治家はいない。