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「嚆矢」の美学

Life Heart Message 2017.11.13

 

抽象絵画の歴史は写真から始まった。写真(photograph)は文字通り「光で書く」という意味である。写真とはまさしく光で書くものであり、固定された光で描かれた像である。19 世紀になって初めて、感光性の化学薬品が発明されたことによって、絵画は表現の独占権を失った。

 

ルネッサンス以来ずっと、画家たちは事実の模写に専念していたが、この新技術を不吉な脅威と見なした。どうして人間の手が光子に太刀打ちできようか。イギリスの国民画家ターナは、銀板写真を見て、「早く生まれて良かった。これで絵画の時代も終わりだ」と言ったという。だがすべての画家が、絵画はカメラに負けると考えたわけではなかった。

 

1910 年12 月、ポスト印象派の第1回絵画展が開催され、その展覧会の花形スターは、ポール・セザンヌだった。彼の革命的な絵は、果物、頭蓋骨、ブロヴァンスの乾いた風景など、ほとんど地味なものばかりを描いていたが、そうした質素な題材が、かえってセザンヌの様式を際立たせていた。その展覧会の紹介文でロジャー・フライが「決まり切った表現」と呼んでいるものを、セザンヌは棄てていた。

 

フライはこう宣言する「芸術がめざすものは、外見への似非科学的な忠誠ではない。この革命の火蓋を切ったのはセザンヌである……」彼の絵が目指すのは錯覚や抽象ではなく、現実である。現実の定義を変えるのは容易ではない。1910 年の絵画展に際して、新聞では、セザンヌの絵に「興味を抱くのは、病理学の研究者と精神異常の専門家だけである」と酷評された。批評家たちは断言した「セザンヌは文字通り正気を失っている。彼の芸術

は醜い虚偽であり、自然をわざと歪曲したものにすぎない」と言ったが、セザンヌは、視覚をめぐるそうした考え方を反転させ、視覚の主観性、すなわち事物の表層に対する錯覚だった。セザンヌがホスト印象主義を創始したのは、印象主義はまだ生ぬるかったからである。「私が伝えようとしているのは、もっと神秘的なものだ。それは存在の根っこに繋がっている」とセザンヌは言った。彼は断言する。「眼だけでは足りない。考えることも

必要だ」見るということは、見えているものを創造することだ。セザンヌがブロヴァンスで孤独のうちに世を去った6年後、1912 年の秋、第2 回ポスト印象派展のこの時、セザンヌの作品は一大芸術運動の嚆矢(こうし)と見なされ、その芸術的実験はもはや彼ひとりのものではなくなっていた。

 

抽象は新しいリアリズムになっていた。2、30 年後には、パリは型破りな新しい世代の現代画家で溢れかえる。ピカソやブラックを筆頭とするキュビストたちは、セザンヌの手法を予想外の結末へと導くことになる。かのピカソは、「自分がいちばん影響を受けたのはセザンヌであった」と言った。セザンヌほど人間の心をしっかりと捉えた画家は他にいなかった。