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「徒然草」の美学

Life Heart Message 2017.11.20

 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人の栖と、またかくの如し……」有名な鴨長明の『方丈記』の一節である。

 

その流れをくむ兼好は、その無常観における時間を『徒然草』第25 段において、「飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事さり、楽しび、悲しびゆきかひて、花やかなりしあたりも人すまね野らとなり、変わらぬ住家は人あらたまりぬ。桃李もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬいにしへのやん事なかりけん跡のみぞ、いとはかなき。」と、有限的な時間意識を無常観として、人間と自然を、その有限性において捉えている。

 

しかし、長明の場合のように、無常観が観想的な現生否定としての生の否定の方向をとるのではなく、兼好の「世はさだめなきこそ、いみじけれ」におけるがごとく、現世に対する実践的で積極的な生の肯定の方向をとっていた。この有限的生が、生きることへの発条となり、生の真剣さをもたらす場合、はじめてそれは本来の意味における実存的時間となるのである。

 

『徒然草』が書かれたのは、元弘元年十月以前の約1 年間で(1330~1331 年)兼好48-49歳の頃と言われていて、当時北条執権の末年、南北朝対立に入る元弘の変の直前であった。

この時代にあって人びとは「ひたすら世をむさぼる心のみふかく、もののあわれも知らずなりゆくなん浅ましき」「無益の事をなし、……時を移すのみならず、日を消し、月を亙りて一生を送る。尤もおろかなり」と評し「死人におなじ」と断じて、つぎのように要求する――「されば道人は、遠く日月を惜しむべからず。たゞ今の一念、むなしく過ぐる事を惜しむべし」と第108 段に記す。

 

西洋のキルケゴールは「このような瞬間は独自の性質をもっている……またたくまに過ぎ去っていく。しかし、それにもかかわらず、それは決定的なものであり、さらに永遠的なものによって充たされている……われわれはそれを「時間の充実」と呼ぼう。」と言った。

 

それゆえ兼好は「一時の懈怠、すなわち一生の懈怠となる」「一事」あるいは「一大事」「一念」は、特に仏道へ入る決断としての意味をもっていた。「一事を必ずなさんと思はゞ、他の事の破るゝをもいたむべからず。……万事にかへずしては一の大事成るべからず。」「大事を思ひたゝん人は、去りがたく、心にかゝらん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。」「されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。たゞ今の一念、むなしく過ぐる事を惜しむべし。」

 

『徒然草』第93 段に「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」という言葉は、単なる生の瞬間的享楽を意味したのではなく「時間の充実」について語っているのであって、決定的な時間のうちに身をおくことによって実存への飛躍を示している。御義口伝に「一念に億却の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起こるなり。所謂南無法蓮華は精進行なり」