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「衷心」の美学

Life Heart Message 2018.7.23

 

大地主の息子として生まれ、銀のサジをくわえて育ったが、ただのドラ息子ではなかった。勉強好きではなく名門(旧藩校)に入るが、上級生のイジメに我慢できず、倉敷から東京に遊学する。早大の前身に籍をおくが、ほとんど授業には出ず放蕩無頼の生活は、倉敷の大地主の一人息子とあれば取り巻連もでき「取りっぱくれはない」と高利貸も出てくる。借りた金は、今の感覚では10億円を超していた。この借金の後始末のため、尊敬する義兄を病没させる。父は60歳をすぎていたため、放蕩息子は帰郷させられる。

 

父は地元からかつぎ上げられた倉敷紡績が時代の波にのり大きく発展していた。放蕩息子こそ大原孫三郎であった。彼は「よい友が欲しい。本当の友達が欲しい。それ以外には、何も要りません」との思が石井十次と出会う。強烈なヒューマニズムの敬虔なクリスチャンで、福祉などという言葉のない明治時代に、個人の力で孤児救済運動をはじめ、岡山孤児院を設立、児童350人を抱えて苦闘していた。徳富蘇峰に「済人道楽」と評されたが、石井は「道楽ではないと事は出来ぬよ」ただし、その道楽のツケはすべて大原孫三郎へ届くが、孫三郎もまた進んでその伴走走者となり助けた。二人の関係は、炭素と酸素。会えばいつでも炎となって高めあった。孫三郎は「金持ち程世に不幸なものはあるまい。悪魔に対して最も良い得意先なればなり」と日記に書き、石井は「精神の次に必要なるものは実に富の力なり。余裕なければ何事も出来ぬものなり」と日記に書いている。

 

孫三郎は知育の必要が社会各層の人々が同じように勉強できるように講演会を24年にわたり開催を続け、講師には、徳富蘇峰をはじめ、新渡戸稲造、金原明善、大隈重信、留岡幸助、海老名弾正、江原素六、志賀重昂、桑木厳翼、山路愛山、高田早苗、三宅雪嶺、姉崎正治といった当時の日本を代表する知識人を、20代半ばの青年が主催していたのである。

 

また、無名の画学生だった児島虎次郎を見込んで、ヨーロッパへ5年間の留学をさせ、その後、美術館の絵のセレクターとして、マチス、モネ、ルノアール、エル・グレコ、セザンヌ、数多くの名作の購入に尽力する。昭和4年3月、児島虎次郎は50歳を前にして世を去った。

 

大原孫三郎は「きみの如く真面目にまた熱心に、ぼくに対し衷心から尽くしてくれた者は居ない、きみはぼくが本当に心から信じていた友達の一人であった……心からきみに謝したい」と弔辞の中で言った。昭和5年4月19日美術館の地鎮祭と児島虎次郎遺作展を、第一合同銀行本店が開催する。大原美術館の一般公開は、11月25日であった。

 

昭和7年、来日したリットン調査団が大原美術館を訪れ、エル・グレコ等の名画の数々に仰天し、太平洋戦争下でも、世界的な美術品を焼いてはならぬと、倉敷は爆撃目標から外された、といわれる。仕事も思想も、「すべてが建設でなくてはならぬ。創作でなくてはならぬ」と言った大原孫三郎は、昭和18年1月18日生涯を閉じた。この日、1月

18日は「不学の大学者」孫三郎が46年前、東京遊学に出発した日でもあった。慧光照無量……