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「家学」の美学

Life Heart Message 2018.01.29

 

古い商家に生まれた富岡鐵齋は若い時から本を読むことが好きだった。家は代々好学の当主を出し、殊に三代目の祖富岡以直は、石田梅岩の高弟で、二、三の著述もあり、心学史上に知られた人物であった。それ以来石門心学が富岡家代々の家学となった。心学は神、儒、仏をつきまぜた実践的な教えで、この思想は鐵齋にも深く影響した。画の方ではいろいろの流派に学んだ。

 

南画が主体であったが、大和絵、仏画、琳派、浮世絵の流れも受けており、狩野派の筆法を学んだものや大津絵さえあった。これも亦学問の方で、家学の風を受けていた。彼は実に勤勉に古画の模写をし、富岡家に遺されたものを見ると、中国画として、沈周、唐寅、董其昌、徐青藤、石濤、黄慎ら、日本画では玉中厨子、鳥獣戯画、隆信の頼朝像、伝雪舟の富士山、初期浮世絵の遊女図など、おびただしい数にのぼっている。

 

鐵齋は終生学者をもって自ら任していた。「俺は知っての通り元が儒生で、画をかくいうのが変体じゃ。それで師匠もなければ弟子も取らぬ。唯もう書物の中から出して画をかくばかりで、それで書物という書物、画論という画論は大概買って読んで居る。先年死んだ倅の謙蔵を支那へ遣ったのも、画論を集めさしにやったような訳で、南画の根本は学問にあるのじゃ。そして人格を研かなけりゃ、かいた画は三文の価値もない。俺の弟子取りをせぬ理由もココじゃわい。新しい画家に言うて聞かしたい言葉は、万巻の書を読み、万里の道を徂き、以て画祖をなす、と唯これだけじゃ。」これは晩年の「山水画談」の中の言葉である。

 

大正七年五月、鐵齋八十三、妻春子七十二の祝を円山左阿弥に催し、九月石田梅園七十五年忌を営むと年譜にあり、この年十二月、子息謙蔵四十六歳で死去する。これが一転機となり、鐵齋の芸術は、その最後の最も美しい花を咲かせるのである。そして鐵齋は大雅、玉堂とならんで日本南画の最高峰となった。五十三歳で死去した大雅、五十八歳で死去した竹田に比して彼が八十九歳という長寿を得たことは幸いであった。九十近くになった最晩年のものがことごとく傑作となっているごときは、むしろ罕(まれ)な例なのである。

 

あらゆるものから学び、あらゆるものを取り入れて自家薬籠中のものとする家学の精神を受けたところが多かった。鐵齋の偉大なあらゆる影響を、渾然一体として純一無雑な芸術境地を打ち出したところあり、やはり長寿が必要だった。鐵齋は俺の画を見るならまず賛を読んでくれと言い「一般画工のように単に人をよろこばす画をかくつもりはなく、必ず世の人の教訓になることがらをかくように心がけて」いた。また、鐵齋芸術は縄文的原型の系譜の中にあった。

 

万巻の書を読み万里の道を徂った天才が遊戯三昧の中におのずから達したもの―――彼の好んで使った言葉を用いれば、自ら画祖を成したものなのである。