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「思惟」の美学

Life Heart Message 2018.02.26

 

哲学者カントの主著『純粋理性批判』(1781 年)を書くまでに12 年間かかったと言っている。自分でコペルニクスの地動説の発見にたとえて、考え方の180 度の転回を遂行することを決意。「純粋理性」といっても、特別な理性があるわけではなく、これは理性の純粋な認識ということであり、理性が経験の助けを借りずに自分だけの力でおこなう認識ということであった。

 

ドイツ啓蒙の思想的代表者であったカントは「啓蒙とは何か」(1784 年)の論文の冒頭で「啓蒙とは、人間が自分が未青年状態を脱け出ることである……未青年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性(理性)を使用しえない状態である……この原因は悟性が欠けているからではなく、むしろ他人の指導がなくても自己の悟性を使用しようとする決意と勇気を欠いているところにある。それゆえ<あえて賢こかれ!>――これが啓蒙の標語である」と。この「他人の指導」とは、神の後見のことである。世界の存在構造と人間理性のおこなう認識とのあいだに対応関係が成り立ちえたのである。

 

カントは神を排除し、神的媒介をぬきにして、なぜか分からないが人間理性には世界を奥の奥で成り立たせている存在構造(命を命ならしめている)ものを知る力があると主張する。彼は<純粋悟性概念>と呼んで「量」は単一性/数多性/全体性。「質」は事象内容性/否定性/制限性。「間係性」は実体と属性/原因と結果/相互作用。「様相」は可能性/現実性/必然性に決定されると言う。

 

カントは自らの思想を展開して、第一の問い「わたしは何を知りうるか」第二 の問い「わたしは何をなすべきか」第三の問いは「私は何を望んでよいか」であった。彼にとって望むということはすべて、幸福―――すなわち我々の全傾向性の完全な充足に方向づけられていること。

 

道徳法則を遵守した時、それを根拠にして、その行為者が幸福にも与ると期待してよいのか、と。この問に直面して、道徳性(徳)と幸福(福)との連関についてである。幸福は我々の行為とはかかわりなく、自然の因果性によって達成されたり、頓挫したりする。にもかかわらず道徳性と幸福の連関は存する。

 

カントに従えば、道徳性とは、幸福に値するよう行為することに他ならないのである。彼の「私見・信仰・知識について」で詳述している。「道徳的命令は、……同時に私の格率なので(そうでなければならないことが、そもそも理性の要求である)。私は不可避的(ふかひてき)に神の現存在と来世とを信ずるであろう、そしてこの信仰を揺るがしうるものは何もないことを私は確信している……」カントの哲学的な着想全体は、多くの批判的観点にもかかわらず、最高の哲学的位階とを伴った哲学的成果となっている。「純粋理性批判」は今日の世代にとっても思惟の尺度であり思惟の課題でもある。