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「悟性」の美学

Life Heart Message 2018. 3.12

 

カントは哲学者に対して、学問と智慧との総合的統一を求めていた。真の哲学者は、単なる専門的知識の「理性の技術者」ではなく、「自ら考える者」としての「理性の立法者であり、哲学は“理性の立法学”である。ゆえに理性を自由に生かして「自らを試練」しなければならない」と言った。「知識を止揚して信仰に場所を譲る」というカントの名言は、単に理論理性と実践理性との間のみならず、道徳と宗教の間の関係においても妥当していた。そして相互の

不足を補足し合う関係になっていて、それぞれ「知と信」「知から信へ」という関係を形成している。

 

カントは「神と、われわれには今は見えないけれども、希望された世界なしには人倫性(道徳性)の素晴らしい理念は、たとえ賛同と感嘆の対象となりえても、企図と遂行の動機にはならない」とさえ断言している。彼は、智慧について「どこに最高善を位置づけるべきかという概念の指針」であるのみならず、「どのようにして最高善が獲得されるべきかという行動の指針」としての「実践的哲学者」こそ、「本来の哲学者」「真の哲学者」であり、理論と実践の統一を自らの命題とする「言行一致」の哲学者だと言う。

 

またカントの関心事は、ことごとく人間の関心事であり、それぞれの問いを明らかにすることは、常に人間の本質を明らかにすることであった。知識の対象は「真」であり、行為の対象は「善」であり、希望の対象は「福」であり、その希望は行為のなしえないところを究明するという人間理性の全関心に答えようとしたのであった。

 

カントは「世界には世界の部分としてかさもなければ世界の原因として、絶対に必然的な存在者であるような何か或るものが存在する」まさに神的存在に関して表明し、可能性・現実性・必然性・原因性・単一性・悟性および意志の諸概念を神の存在に適用するかというこの難問を、「実践理性批判」への序文において、この問題をきわめてはっきりと本来的な謎であると言っている。

 

プロテスタント的啓蒙主義の神学は、この点に存する存在的困難を、あまりにも無頓着な楽天主義のなかで、きわめて低く評価したが、カントがはじめてその精密な研究において、その基本的な難問を取り出したのであった。我々人間の存在は、自発性と受容性との共働によって規定される。あらゆる悟性および意志が自発性に基づくものであるかぎり、自発性はだれ人にも内在し、しかも絶対的存在としての人間は、他の絶対的存在「宇宙の生命法則」と連関して存するものであり、この生命環境のなかに生かされている。

 

「神は悟性であり、神は知性である」と言ったカントが、当時のキリスト教神学が中心である事を考えると、彼がいかに知の探究的困難に直面していたか・・・・だが「神は知性体である」という規定をつねに堅持していた。また、哲学と道徳と宗教とが健全なる調和関係を願っていたのではなかろうか。人間は「聖なるもの」を見る視座がなければ、人間の尊厳という思想の根はできないのだから・・・・・