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「格闘」の美学

Life Heart Message 2018.4.2

 

青森の裕福な庄屋に生まれた男子は、少年時代には米俵二表を軽々と持ち上げ、その腕っ節を発揮し「相撲っ子」といわれ、向かうところ敵なしであった。小学校を卒業したが、旧制中学は2 年で中退。家出同然で上京し、創立したばかりの早稲中学(現:早稲田高等学校)に編入するが、勉強が苦手であっさり中退。

 

明治30 年(1897)嘉納治五郎の講道館に入門し、四天王の一人であった横山作次郎などの指導を受け、頭角を現していく。黒帯直前の兄弟子らを次々と投げ飛ばし、最終的には10 人抜きに勝利する。また、昇段審査において15 人抜きを命じられ、これも難な達成。

 

明治32 年正月初段、二段、三段と破竹の勢いで昇進し、学習院や陸軍幼年学校などで柔道を教えるようになる。「講道館四天王」の次世代を担う者として「講道館三羽烏」と呼ばれ注目された若武者こそ前田光世であった。

 

明治37 年(1904)アメリカでの柔道の普及のための使節の一員として、光世は渡米を命じられる。ちょうどその頃、日露戦争な日本が勝利した時期で、同時に多くの日本人移民が流入し、その結果多くの現地人が職を奪われる事態が起こっていて、国家的に反日キャンペーンが打たれ、差別は日に日に増していった。そのため柔道の普及は進まなかった。

 

また、日本人の偽柔道家たちが、各地でレスラーに勝負を挑まれ、無残に負けていた。そこで、日本柔道の威厳を示すべく雪辱を誓った。前田光世は、講道館では厳しく禁止されていた異種格闘技戦を断行する。25 歳で4 段であった光世の伸長164 センチ、体重68 キロの姿を見て、プロレスラーのブッチャは、182センチ113 キロの巨漢であり、楽に勝てると踏んでいたが、1本目は巴投げ、2 本目は腕の関節を極め、わずか8 分10 秒で完勝する。光世は、柔道着を着用した試合では千試合負けなしだったが、柔道着の着衣を相手に拒否され、半裸のレスリングスタイルでの世界大会では、重量級で準優勝で敗れたが、驚異である。

 

その後、イギリスで活躍した光世は、ベルギーやフランスなどヨーロッパ各地で試合に勝利する。中南米のメキシコやメキシコでの格闘技は盛んで、小柄な光世が大柄なレスラーを手玉に取る様子に観客を熱狂させ、大いに人気を博した。

 

グァテマラからパナマ、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイを歴訪し、大正3 年(1914)ブラジルの土を踏む。そして光世永住の地となるアマゴん河口の都市ペレンに到着。アマゾーの勇者を決めるレスリング大会に飛び入りで参加し、難なく優勝を収める。彼の強さと、その礼儀正しい振る舞いを目にしたペレン市民は、尊敬の眼差をもって光世を迎えたのである。

 

大正11 年(1922)40 歳を超えた光世は第一線から退き、アマゾンへの入植事業に専念する。大正13 年、肝臓の病で入院。看護にあたってくれた英国人のディジ・メイ・イリスと結婚。セレスチという養女を迎えた。昭和5 年、「コンデ・コマ」を本名にしてブラジルに帰化。昭和16 年11 月28 日、光世63 歳で生涯を閉じた。葬儀では、ペレン市街から墓地までの道のりを、ペレン中の自動車が列を作って見送り、哀悼の意を表した。前田光世の格闘は嘉納治五郎の柔道の精神「精力善用」「自他共栄」であった。