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「Beyond Art」の美学

Life Heart Message 2018. 04.09

 

祖父はベルリン大学総長を努め、父親はケーニヒスビルク大学・神学教授で、民主的カント主義者で、時の皇帝ヴィルヘルム2 世の絶対的政治を嫌悪していた。また、母親はイギリス経験論の知的背景のもとに育った関係で、英語を教えるのに反対し、ホメロスとダンテを学ぶことを強制した。家の伝統に反して飛行機に熱中する兄が、反対する父との果てしない議論のなかで言い放った「人は過程を通じて学ばねばならない」という言葉に強く印象づけられた弟のドルナーは、父の哲学と母や兄の哲学に反して、芸術の研究に進むのを決定づけられた。

 

ドルナーはケーニヒスベルク大学からベルリン大学に移るが、彼の求めるものは、ウィーンにあった。当時のアカデミズムからの一種の解放だった。第一次世界大戦の敗戦は、一つの世界の終わりとなり、あの厳しい大戦の後、心ある者は誰しもが直面している問題に知性豊かな変化が必要であると感じ、各々の職場で現実と理想主義との大きな溝に橋をかけようとしていた。ドルナーも例外ではなかった。

 

全ヨーロッパのアカデミーに対立した「モダン・アート」運動は、当惑するほど混乱した様相を呈していた。ドイツでは表現主義とダダイズム、イタリアには未来派、オランダ、ロシア、ハンガリーにはそれぞれ違った抽象と構成主義の運動、フランスではキュビズム、ピュリズムそしてダダイズムがあった。これらの革命的運動は時に敵対し合うこともあった。

 

1925 年に美術館長、ケストナ協会会長となったドルナーは、学会との対立を引き起こし、厳しく批判され、スキャンダルに近い反応を巻き起こした。またヒトラーが首相となり、モダンアートはこのとき「頽廃芸術」という汚名を着せられていたが、ドルナーは、ナチズムの文化政策に抗してバウハウスを支援し、州立美術館の作品を守り続けたが、1932 年バウハウスは閉校され、その教授陣は国外に逃れていった。自らの部下が脅迫と買収によって密告者となり、行動が見張られ、会話が盗聴され、ドルナーには政治犯の容疑が掛けられ、もはやナチ党への公然たる反抗は死を意味し、アメリカへの移住を決意する。ついにモダン・アートは第三帝国によって抹殺された。

 

アメリカに到着後、アイランド・デザイン・スクール付属美術館長となり、美術観賞を学校カリキュラムに組み、スクールバスが毎日美術館に横付けされるようになった。土曜日には少年少女の作品で「子供美術館」に、日曜日には、市民のための音楽会と講演会を開き、ドルナー自身も講演を行い、ラジオ放送にも積極的に出演した。これらの社会的教育活動を通じて、プラグマティズムに基づく新しい美術史と芸術哲学を模索、特にデューイの共感を得る。

 

第2 次世界大戦が終わったこの年、ブラウン大学からドルナーに科学と芸術の統合を示す作家の展覧会を要請された事から、一冊の体系的著述が『美術を超えて』となる。1957 年イタリアのナポリに客死したドルナーの左頬には、学生時代に屈強な相手との決闘による傷跡がシンボリックに残っていた。それはドルナーの人生の闘いの勲章のようであった。