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「知と祈り」の美学

Life Heart Message 2018.4.30

 

フランツ・カフカの文学の根底に横たわる動物的な身体表象は、「太古の世界において忘れられたもの」の、また「しかしいちばんひどく忘れさられた未知のものは、われわれの肉体―自分に固有な肉体なのだ」という驚くべきテーゼを示した。彼の文学の根底には、救いへの、しかも「すべての生き物」の救いへの祈りがあった。それは、宗教的なものではなく、信仰に基づくものではなかったが、人間の魂がおのずから備えている心遣い、注意、集中によって支えられた「魂の自然な祈り」であった。

 

「注意とは精神の自然な祈りであって、それは神からただちに、ということは媒介者、つまり恩寵の作り手という資格でわたしがそこに関与することを必要とせずに、もっと高い真理の光と理解を得ることなのだ」と、マールブラッシュは言った。

 

1994 年にノーベル文学賞を受けた大江健三郎は、ある夏、言葉の発達障害を負った御子息と、北軽井沢の山に行った時、森の中でクイナが鳴いた。肩車をしていた息子の光君が「クイナだ!」といった。大江は、鳥がもう一度鳴いたらいいなと思った。そして息子がもう一度「クイナだ!」の声に、私の子供は人間の言葉を話す可能性があるんだと思った。その時、無信仰の大江健三郎は祈っていた、祈ったというよりも、集中した。このいまの一刻が、自分の人生で一番大切な時かもしれないと思ったと言う。これこそまさに「魂の自然な祈り」であろう。その後、光さんは作曲家として深い癒しの力に満ちた音楽を創り出している。

 

一方、「注意」は徹底して宗教的コンテクストのなかにあることを示した哲学者・思想家シモーヌ・ヴェイユは、いかなる教会にも属さない徹底した純粋な神への信仰を生きただけではなく、その生活のすべてを過激なまでに祈りと一致させた人であった。若くして、まるで両端から蝋燭を燃やし尽くすように、みずからの身を祈りによって燃焼させて亡くなったこの女性が残した思考の跡を辿ると、彼女が「注意」をそれこそ、人間にとってもっとも大事な能力として考えていた。

 

しかもそれを「祈り」の基盤としていたことが、『注意と意志』と題された断章群に「完全にどんな夾雑物のない注意が祈りである」と、注意から祈りへと向かって高まっていくシモーヌ・ヴェイユの思考は、対象を見つめ、対象の存在に出会い、そこに働くわれわれの思惑を超えた法を注視する知であった。対象に注がれるその注意の力は、それ自体で、すでにモラルの条件であり、人間の普遍的な祈りへ触れている。

 

「詩人は、真に実在するものに注意をそそぐことによって、美を生み出す。人の愛するという行為も同じである。……あるひとりの人間の活動の中に、真、善、美といった真正で純粋な価値が生じてくるのは、いつの場合にも同じ一つの行為を通じてである。対象にまったく完全に注意をそそぐといった行為を通じてである。」

 

知と祈りはけっして切り離してしまえるものではないのだ。