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「大志」の美学

Life Heart Message 2018.5.28

 

1863(文久3)年、信濃国の上田藩の下級武士・山本順兵衛政策の四人兄弟の三男に生まれた勝三郎が5 歳の時、江戸幕府が倒れ、明治の時代を迎えた。武士という身分は廃止されて、山本家の生活は困窮を極めた。父の寺子屋で学問の素地を植え付け、11 歳の時、新設された小学に入学。明治10 年、優秀な成績で卒業した勝三郎は、授業生に選ばれ松平学校に勤務することになった。

 

この頃、彼に大きな影響をあたえる書物に感化され「世界の名に知られるような人物になりたい」「世界中の人のためになる仕事をしたい」という大志を抱いた。養子の話を辞退していたが、正木先生の説得の熱意に打たれ、かつては上田藩の御典医であった山極吉哉の養子になる。

 

中学を卒業後、上京し、私立ドイツ語学校に入学。同年12 月に東京外語学校、東京大学医学部を卒業した勝三郎は、翌年1 月に山極家の長女・包子と結婚する。

 

24 歳で最初の研究業績である「唾液の作用」を発表、翌年(明治2 年)東京大学医学部を首席で卒業し、すぐさま病理学教室助手として勤務する。当時の日本における病理学研究は、まさしく世界水準を誇るものであった。北里柴三郎が破傷風の血清療法を発見し、その後ペスト菌を発見し、彼が設立した伝染病研究所の志賀潔は赤痢菌を発見するなど、世界の先頭を走り続けていた。

 

28 歳の若さで助教授となった勝三郎は、医学の本場であるドイツに留学する。コレラ菌を発見したコッホ博士のもとで1 年が過ぎ、1892(明治25)年4 月、勝三郎はベルリン大学のウィルヒョウ博士に師事し、多大な薫陶を受け、勝三郎はウィルヒョウ博士を生涯の師として尊敬した。人格円満で高潔な博士の信条は、「いつも人のためになることを地道に実行せよ」であった。勝三郎が、自らの生涯を「すべての人を愛する」という理想で生き抜いたのは、この恩師の影響を強く受けていた。一方、当時の山極家は火の車であった。山極吉哉は多額の借金を抱え、高利貸しに責められていた。勝三郎の収入では手に負えるものではなくなっていた。

 

明治31 年、近所の火事で勝三郎の家も焼失し、この時、8 歳の長女は煙にまかれて焼死の報を受けた勝三郎は、じっと悲しみをこらえて、脚気の研究発表をおこなっていた。一家を悲劇のどん底に突き落とした。また彼は肺結核を発病する。「自分の力で、できるだけ調査してみることが、研究の心を育てる」この努力は明治38 年に、わが国最初の『胃癌発生論』を出版となり、後に人工的にがんを作ることに成功。大正8 年、帝国学士院賞を受賞。大正14 年、勝三郎はノーベル生理学・医学賞にノミネートされる。また大正15 年に再びノミネートされ、昭和3 年にもノミネートされたが受賞は叶わなかった。

 

昭和5 年3 月2 日、山極勝三郎は67 歳の生涯を終えた。御遺体は解剖されたが、ここで驚くべきことに、勝三郎の結核は完治していた。昭和11 年には勝三郎の栄光を後世に残したいと、4 回のノーベル医学賞へのノミネートは受賞に至らなかったが、昭和41 年10 月、世界のがん研究史上における山極博士の偉大な業績は、ノーベル賞選考委員会が認め、許しを願って、選考もれの真相を明らかにしたのであった。

慧光照無量