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「意中」の美学

Life Heart Message 2018.7.2

 

明治10 年、発足したばかりの東京大学に入学した岡倉天心は、外国人教師アーネスト・フェノロサと出会い、狩野派絵画研究に協力するうちに、自身、当時世間からすっかり打ち捨てされたようになっていた伝統日本美術に開眼、大学を卒業後文部省に入ると、師フェノロサと二人三脚を組み、日本美術復興再生運動に尽力する。

 

明治22 年、東京美術学校開設に漕ぎ着け、弟子の横山大観、菱田春草らを指導し、近代日本画創造を開始した。しかし勢力を増す欧米化派、洋画派と対立し、天心は孤立。明治31 年には美術学校を追われ下野。日本美術院を新たに創設して運動をつづける。明治34 年から1 年ほどインドへ、以後の半生は、招聘されたボストン美術館東洋部門で活動、日本に帰国した際は北茨城五浦海岸に建てた住居に隠棲して釣りを楽しむ世捨て人的生活をつづけて、大正2 年52歳で逝去。

 

彼の著作に『東洋の目覚め』『東洋の理想』『日本の目覚め』そして『茶の本』は、近代欧米の物質主義的文化に対して、東洋伝統精神文化の奥義を説きつくし、天心の文明思想のエッセンスを示すものとなっている。作品は、全七章からなり、茶を中心軸としながら、さまざまな話題に自在に展開して絶妙な構成となっている。第六章「花」には、茶道と連携しながら発達した花道について、その神髄を語る「やさしい花よ、星の涙の滴よ、園生(そのう)

に立って、白露と日の光をたたえてうたう蜜峰にうなずいて見せる花よ、おまえたちはおまえたちを待っているお

そろしき運命に気づいているのであろうか……」欧米において、人間の好き勝手に浪費され、使用済となれば、無用のごみとして投げ捨てられていることを批判する。

 

これに対し、天心は、繊細な愛情を注いで花を栽培した古人たちのエピソードを紹介し、さらに理想的には、野の花を、そのままに、そこに人間の方からおもむいて賞玩することをすすめ、ついで、花道の話に転じている。天心は純粋に、時空を超えた風流の形而上学ともいうべき世界を開示し、現世社会をとりしきる因果、損得のしがらみを脱して自然の摂理に身を委ねる境地を思いめぐらせていた。また彼は当時の日本にあって、抜きんでて西欧を知り、理解していた人物であり、一般の日本知識人が摂取しようとしていた西欧近代文明の枠組みが、実はもはや制度疲労を起こし、その危機を察知していた。

 

天心没後『茶の本』は徐々に、過去の日本文化の紹介啓蒙書として受け入れられ評価されたが、太平洋戦争の前後には『東洋の理想』の冒頭の有名な標語「アジアはひとつ」が大東亜共栄圏思想の先駆として喧伝されたりした結果、激しい政治的毀誉褒貶の渦に巻き込まれてしまったが、1970 年代あたりから『茶の本』本来の意図が理解される気運となる。これは、日本をふくめた世界の文明状況において、近代文明の枠組みを脱し、それを超える新しい文明モデル、たとえば自然と人間の共生を唱えるエコロジ文明の気運に『茶の本』は、100 年近く先行していたのであった。