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「憧れ」の美学

Life Heart Message 2018.7.9

 

よき種は土の中で力を蓄えていた。発芽には、起爆剤となるものが必要である。それは太陽と水。フィンセント・ファン・ゴッホにとっては、太陽はパリで、水は日本美術(浮世絵)であった。この2 つの起爆剤を得て一気に開花したのが、1886 年のパリ進出以降のゴッホである。

 

パリで画材屋兼画商をしていたジュリアン・タンギー爺さんは、売れない画家たちに絵の具をツケで売り、そのツケが返せないと、画家たちは自分の絵を置いていった。それがゴッホ、セザンヌ、ゴーギャン……だったという驚きである。小さな国の国家予算に匹敵するような価値に高騰している彼らの作品を、絵の具の借金のカタに貰っていた。

 

タンギー爺さんの死後、これらの作品はオークションを通じて売却され、セザンヌの一点が今の金額で20 万くらいで落札されたという記録が残っている。ゴッホも絵の具代が払えない代わりに「タンギー爺さん」を描いたのであろう。この絵の背景に、なんと日本の浮世絵を散していた。ゴッホの弟テオは有能な画商であり、兄を経済的に支えていた。ゴッホは、描いた絵をすべてテオに送って、「売って欲しい」と言ったが、ゴッホの生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』(1888)の一枚のみであった。

 

心から日本に憧れていたゴッホは、ロートレックに「アルルが日本っぽいらしいよ」と教えられ、ユートピアを夢見てアルルで、仲間たちと一緒に生活する共同村をつくりたいと呼びかけたが、ただ一人、応えてくれたのは、ポール・ゴーギャンであった。ゴッホはミレーの影響もあり「見えたように描くべきだ」と主張し、ゴーギャンは「アートは想像のもので、空想こそがアートをつくるんだ」と反論し、二人の共同生活は2ヵ月で破綻する。ゴーギャンが去った後、ゴッホは左耳たぶの一部を切り落とした事件によって、「狂気の人」に仕立てあげられる。

 

親切なレイ医師に「サン・レミという町に修道院の療養院をすすめられる。そこなら思う存分絵が描ける」と、自ら選んだ。入院してすぐ描いた『アイリス』は生命力にあふれていた。

 

回復したゴッホはキャンバスを持って屋外へ出かけ、キリストが磔にされた十字架に使用された糸杉にゴッホは心を奪われ描いた。この絵を評した小林秀雄は「線といい均衡といいエジプトのオベリスクの様に美しい」と言った。弟テオと奥さんヨーの間に生まれた子に、ゴッホはそのお祝いに『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈った。新しい生命の象徴とした名作であった。

 

1890 年7 月27 日ゴッホはピストル自殺を図る。翌日テオが駆けつけ、息があるうちに2 人は会うことができた。ゴッホの遺作といわれている『カラスのいる麦畑』ではなく、『木の根と幹』(1890)である。この絵は左右1 メートルもある横長で、大地に張る根をクローズアップしてとらえて、小さな部分を見つめる視点は、日本の浮世絵の手法であり、地面に這いつくばって、憧れていた日本美術のエッセンスを完全に取り込んで日本とついに一体化していた。「日本に行き、日本人になるんだ」と言っていたゴッホは、「自分は仕事に生命を賭した」と書いた一言は、作品とともに私たちの胸を打つ。

 

慧光照無量