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「表現」の美学

Life Heart Message 2018.7.16

 

スイスのベルン近郊に生まれたアドルフ・ヴェルフリは、幼少の時に里子に出されて過酷な少年時代を過ごした。20 代のとき少女への暴行によって逮捕されて服役し、その後、同種の事件を起こしたとき、統合失調症と診断されて精神病院に収容される。以後、没するまで35 年間をそこで過ごすことになった。

 

彼はやがて空想的な自叙伝を書き始め、色鉛筆によって緻密な絵や楽譜を付して書物の形にしたが、結果的にはそれは2 万5 千頁におよぶ、膨大なものとなった。実際にはどこにも旅したことのない彼が世界中を冒険し、自らを聖アドルフと称して即位し、王国を拡大していき、ついには全宇宙を所有するにいたるという壮大な物語が綴られているという。左右対称の枠組みに記号のような人物や鳥のような形体がひしめき、文学や楽譜がびっしりと書き込まれている。隙間なく埋め尽くす空間恐怖の典型であり、宇宙観を表す曼荼羅にもたとえられてきた。

 

一見、中世の写本装飾にも似ているが、すべてが彼の独創によるものであった。抑圧された性の象徴などを図像学的に読み解こうとする試みもあったが、実際のところは誰にもわからない。意味は読み解けなくとも、これらの作品からは、造形的な力強さや華麗な装飾性だけでなく、膨大なエネルギーと恐るべき執念が感じられ、息をのむほどの凄みが感じられる。

 

なぜこれほどの精力を注ぐことができたのか?彼にとっては、これを描き続けなければ生きていけなかったということだけは感じられる。フランスの美術家ジャン・デュビュッフェは、加工されていない、生(なま)の芸術を「アール・ブリュット」と名付けたもので、美術教育を受けたことのない素人画家や知的障害者による特異な芸術を表し、生きることと制作することが同義となるヴェルフリの芸術は、もっとも純粋なアール・ブリュットを体現している。今やパウル・クレーと並ぶスイス最大の巨匠と目されている。社会から抹殺された不遇な人生を誇大な妄想によって生き直し、絵と文字によって紙の上に昇華させたその作品群は、人間の創造力の神秘を開示しているといえよう。

 

死刑囚の絵画は、いつ刑が執行されるか誰にもわからない。無実を訴え続ける和歌山カレー事件の林眞須美は、独自な作風で自らの境遇や苦悩を表現し、すでにこの分野の巨匠といわれている。死刑という極度の緊張と不安状態に留め置かれても、表現行為の本質にふれる美術とは何か。人間が表現するとはどのようなことなのかという根源的な問いを鋭くつきつけている。