「涙袖帖」の美学

Life Heart Message 2018.9. 24

 

長州藩の医家に生まれた久坂玄瑞は、少年時に両親と兄を相次いで失った。不遇の身の上の中で十代からその学才は秀で、吉田松陰に師事した。松陰には早世した一人を含めて四人の妹がいた。松陰と交流し、勤皇派僧侶として知られた月照は、松陰の末妹にあたる文子を長州藩の俊才、桂小五郎の妻に勧めたが、久坂の学才を愛する松陰は、文子に久坂との結婚を勧め、実現させた。松陰は結婚にあたり文子に与えた詩文に「久坂玄瑞、防長年少第一流人物、固

(もとより)亦天下之英才」と綴り、この夫への貞節を尽くすよう通達した。久坂十八歳、文子十五歳の若き新郎新婦である。

 

薩摩の海江田信義は、久坂玄瑞について「久坂ハ予ヨリ二三歳モ若ク固ト医師ナリシモ今日ハ世人ノ病ヲ医スルトキニアラス天下ノ病ヲ徐スルノトキナリトテ終ニ還俗シテ義助ト改メ国事ニ尽力セリ、中々智慮ニ逞シキ人物ナリ」と言った。久坂はその短い生涯を、動乱の幕末の最前線での活動に余儀なくされ、文子との穏やかな生活はごく短いものとなった。東奔西走の日々の中で、久坂は文子に折に触れて手紙を送った。文子はその手紙の中に、夫の息遣いを

追い求め、さらにその数倍の量の返書を送った。久坂からの手紙は今日21 通が伝えられている。

 

結婚翌年の安政5 年(1858)から死の一ヵ月半前にいたるまでの手紙の端端に、久坂の妻への愛情がみなぎり、心打たれる内容のものが多い。まさに尊攘志久坂玄瑞の自分の身を置く国事活動の様子が生々しく伝えられている。また、文子に、武家の妻女として和歌の習得を勧めた。手紙にはさらに文子にある書物を勧めている。それは赤穂浪士の小野寺十内が妻の丹(たみ)に送った手紙九通などをまとめた『涙襟集(るいきんしゅう)』であった。主君の仇討のため、別居生活を余儀なくされた元禄の一夫婦を久坂は自分たちに投影させていたのだろう。自らの生命を賭した国事活動は武家の象徴だった。

 

さらに久坂は手紙で、安政の大獄で獄死した梅田雲浜の姪・山田登美子を文子に伝えた。登美子は伯父とともに大獄で非業の死を遂げた吉田松陰の門下生らと交流し、援助を続けた「勤皇烈女」であり、久坂玄瑞に多大な刺激を与えた人である。玄瑞亡き後、20 年を経た後に男爵の楫取素彦(かじとりもとひこ)と再婚した。楫取は松陰門下で、松陰の二妹の寿子を妻としていたが病没しており、文子は2 年間の熟慮を経て、亡き姉の夫に嫁いだ。松陰門下で久坂とも親交のあった楫取は、文子が持参した21 通の手紙をなんと『涙袖帖(るいしょうちょう)』と銘じ、装幀を施して合巻し、家宝とした。このタイトルは小野寺十内の『涙襟集』に拠ったものであろう。