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「名演」の美学

Life Heart Message 2018.10. 8

 

海軍兵学校の受験前に、急激な素潜りで鼓膜が破壊し、化膿が進み、身体検査で海軍兵学校を不合格。不適合者として烙印を押され、絶望し、割腹自殺を図るが、助けられ一命を取り留めた青年がいた。失意のうちに故郷に戻ったが、ここで転機が訪れる。

 

明治40 年3 月3 日、米国の2 万トンの商船ダコタ号が、千葉県の白浜沖で遭難する。白浜村長の指揮で十数隻の漁船で救助に向かった。この時、通訳として活躍した青年こそ失意の底に沈んでいた早川金太郎、後の雪舟である。当時、アメリカ人の反日感情が高まっていたが、726 名の乗客は救助され、船長は感謝の気持ちとしてアマリリスの花を贈った。この経験が、早川雪舟に「アメリカで日本人として、日本とアメリカのために役に立ちたい」と思い、アメリカのシカゴ大学に入学。1913(大正2)年シカゴ大学を卒業する。

 

その頃ロサンゼルスに世界最大の日本人街(リトル東京)の日系劇場の芝居を見た雪舟は、その楽屋に乗り込んで、あまりにも稚拙の演技に自ら脚本を書き、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』を脚色し、自ら主役の川島武男を演じ、大評判を得た。雪舟は日系人相手だけでは劇場の未来はないと、アメリカ人向けの作品を上演する。ウォーカー・ホワイトサイド作の『タイフーン』は、アメリカ人の間でも評判を取り、ハリウッド映画のプロデューサー、トーマス・H・インスの誘いで映画界入りを果たす。雪舟はインスに週給100 万余りの破格の待遇で、当時では珍し

い自動車での送迎付きを要求する。

 

1915(大正4)年、パラマウントに移った雪舟は、セシル・B・デミル監督の『チート』で、スターダムにのし上がるのである。この作品出演の際も彼は、通常の10 倍のギャラを要求して、それを認められた。この雪舟の好演が、アメリカにおける排日を高める要因となってしまったが、東洋的な美しさを持つ雪舟はアメリカ人女性の人気をさらって、スターの仲間入りをする。1917(大正6)年当時の彼のギャラは週給1500 万円の高額を得ていた。

 

雪舟は翌年映画製作会社を設立。3 年間で23 本の映画を製作し、200 万ドルの利益を得た。

 

1924 年には排日移民法により、日本人の入国不可となり、製作会社を閉鎖し、ハリウッドを去り、その後はヨーロッパや世界各地を巡業する。イギリス国王ジョージ五世に招かれたり、フランスの舞台がヒットする。恋の噂が絶えなかったが、妻に愛人との間に生まれた子供を育てさせていた。

 

1941(昭和16)年、太平洋戦争が開戦し、フランスから帰国する機会を失った雪舟に、ドイツ側から映画のオファーがあったが、一貫して断り続けた。1949(昭和24)年、俳優のハンフリー・ボガートの熱望によって『東京ジョー』に出演する。その時、雪州は水彩画家をしていた。1957(昭和32)年、デヴィット・リーン監督の『戦場にかける橋』で、日本軍の捕虜収容所所長の斉藤大佐を演じ、武士道精神のある一本筋の通った人物としての見事な名演は、

早川雪舟の生き様そのものだった。アカデミー賞助演男優賞に日本人で初めてノミネートされた。彼は言った“日本人よ世界をめざせ”と……1973 年逝去。享年87。