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「治世」の美学

Life Heart Message 2018.11.5

 

15 世紀の大航海時代、世界に進出した西欧列強諸国は、やがてアジア全域を植民地化していた。そして掠奪と搾取にアジアの民は悲惨な状態にあって、堪え兼ねた民衆の反乱には厳しい弾圧と虐殺でのぞんだ。また、愚民政を布いた。

 

明治28 年日本史上、初の植民地となった台湾をいかに統治するかは日本が、「文明国」であることを世界に証す一大事業であった。台湾の近代化と開発のために人材養成の場として設立した教育機関が、台湾協会学校(後の拓殖大学)である。この本格的な植民地経営が始まったのは、第4 代総督として児玉源太郎が明治31 年に着任し、補佐に民政長官に後藤新平が就任する。後藤は台湾経営の哲学を『生物的植民地経営論』をもって、欧米の武断型の植民地支

配とは明らかに一線を画する経営思想を堅持していた。

 

後藤は、「……社会の習慣、制度は、みな相当の理由があって、永い間の必要から生まれてきているものだ。その理由も弁えずに未開国に文明国の文化と制度を実施するのは、文明の逆政というものだ……まず、この島の旧慣制度をよく科学的に調査して、その民情に応ずるような政治を行い、……比目魚(ひらめ)の目をいきなり鯛の目に取り替えようとする奴らで、本当の政治ということのわからん奴らだ」と。台湾の長い悪習であるアヘン吸引の禁止を後藤は『厳禁論』を『漸禁論』の立場に変えて、アヘン吸引者を漸滅する。また、古い来歴をもつ「保甲」の密度の濃い警察制度に変え、戸籍調査や伝染病予防、道路・橋梁建設、義務労働員などに住民組織とし機能させた。

 

後藤の治世下、台湾の植民地経営の基礎は急速に整えられ、土地・林野・人口・多様なインフラは、往時の列強の植民地に類例をみない充実ぶりであった。台湾銀行券を発行し、貨幣の統一・縦貫鉄道・高雄港の拡充・陸上、海上運輸能力が強化され、電話網は当時の日本と変わらなかった。不毛の地を農地に変えたのは、台湾総督府技師八田興一であった。東洋一の巨大灌漑施設を10 年余の長期をかけて完成させ、後藤とならんで今日の台湾で最も深い尊敬を得

ている人である。

 

この日本統治下の教育制度の成果は、国民学校1099 校、盲啞学校など各種学校11 校、実業・師範学校122 校、専門学校5 校、高等学校1 校、帝国大学予科1 校、帝国大学1 校であった。また、高等教育については、日本への留学も一般化し、留学生数は、昭和20 年代までの留学生の累計数は20 万人に及んでいる。遵法精神の確立、近代的衛生観の確立によって、犯罪の防止と秩序の維持を厳密に行うために、司法は公正と正義を維持し、日本の過去に例を見ない革新的な開拓と殖産事業を成し遂げる。欧米列強にとっては信じられないこの事業によって、台湾大衆の信頼を得て日本が文明国であることを証明したのである。